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林 英一『残留日本兵の真実』     作品社、2007

―インドネシア独立戦争を戦った男達の記録―

 

 

 

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日本敗戦の後、外地にいた日本軍兵士は次々に日本に帰還を果たした。それでもなお現地に留まらざるをえなかった者も少なからず存在した。本書は日本軍を離脱しインドネシアに残留した兵士の実像を多数の資料や証言をもとに明らかにしている。

その兵士とは小野盛。1919年北海道生れで、20才で出征し、23歳の時サイゴン、シンガポールを経てインドネシア・ジャワ島に上陸している。敗戦後に「インドネシア独立の約束を反故にした日本への義憤」を感じて日本軍を離脱したという。 

インドネシアでの名前はラフマット・小野である。インドネシア人の名前の特徴は姓はなく名でよばれるので、ラフマットである。

著者は残留日本兵のことを調べる内に、ラフマット・小野に巡り会いその実態を詳細に聞き取り、ラフマットの書いた『陣中日誌』などからその心情を読み取っていった。実に感動的な体験がそこにあった。

どうして日本に帰郷せずに現地に留まったのか。それは決して単純に判断を下すことができない。太平洋の各地に挺進した日本兵に対して、南進、脱走、残留、帰国、棄民、ときに英雄というような単純なラベルを貼ることでは済まされない、数奇な境遇がそこにあったと著者は述べている

敗戦当時、小野青年は「アジア解放のための聖戦」を信じていたのだろうか。小野みずからの証言によると、「日本が果たせなかったことを成功させようとした」。だから「お前たちは逃亡兵」だと言われることに義憤を感じたという。残留者の中では現地の女性と家族を持ったが故に留まった者、戦争犯罪や処刑を恐れて残った者が多かったようだ。

インドネシアの独立を願う心の中にも、「建前だけの独立を唱える者」もいた。小野の場合、日本軍の約束違反に対する義憤以外に、何らかの事情によって残留を決意したのかも知れない。著者が挙げているのは次のような事情である。

1 要領が悪く、頑固者であったので、帰国の絶好のチャンスを失した。軍隊内での昇進が遅れた。

2 天皇に忠誠を尽くしていた「真面目な皇軍兵士」にとっては、無条件降伏だけは承伏できなかった。

3 生真面目で責任感が強いという個人的な気質があった。

4 北海道の農家の三男であったことは、帰国しても農地をもらい自活して生計を立てていくことは無理と思っていた。

このような理由から、独立軍に身を投じることに意義を感じていたと考えられる。

日本軍が力を失ったインドネシアに対してオランダ軍がこれを奪還しようとして、戦闘をしかけてきたため、国内は戦乱で混沌とした状態になった。

1945年12月30日、小野は戦友二人と共に、インドネシア共和国軍に身を寄せることとなった。そこで日本の軍装を解き、服装を変え名前も「ラフマット」に変更した。  共和国軍は日本式の戦闘の手法を学びたいために歓迎された。

オランダ軍の強力な軍事力に対して、日本式の戦いがゲリラ的に繰り広げられた。日本人残留兵たちは、インドネシア人に戦い方を教えたり、戦法の書を作成提供したりしていた。ついには日本人独立機動部隊を構成して戦いを進めていった。

ラフマット・小野の活動に方向性を与えていた人物がいた。それはアブドゥル・ラフマン・市来こと市来龍夫の存在である。市来はインドネシア庶民の立場に立つアジア主義者であったが、軍人ではなく軍の嘱託であった。嘱託でありながら防衛義勇軍幹部教育隊の指導者であり、日本の「陸軍歩兵操典」のインドネシア語訳を作ったりしている。ラフマットは市来の情熱と思想に共鳴し、「普通の日本兵」をこえて独立を勝ち取る戦闘にのめり込んでいくのである。防衛義勇軍として戦った日本人部隊の活躍はめざましいものがあった。

オランダは植民地を奪還することに強い執着をもっていた。一方インドネシア人の独立を目指す強い意志とが対立し、約4年間にわたる紛争を巻き起こした。停戦協定を締結しながらもオランダは協定を無視して進撃してきた。インドネシアは国連に仲介を求めた。ベルギー、フランス、アメリカはオランダを支持した。オーストラリア、インド、パキスタン、シリアなどはインドネシアに同情を示した。日本は敗戦国であるため、重要な関係国であるにもかかわらず蚊帳の外にあった。

ついにオランダに対して独立を承認させることに成功するのだが、日本の防衛義勇軍部隊の活躍はすぐには認められなかった。独立戦争後15年くらいは「難民」として厄介者扱いを受けたのだ。

元日本兵たちは役割を失ったので、生活のために働かなくてはならなくなった。ラフマットにとっても辛い時期である。彼は現地の婦人と結婚し、農地を得て農業に取り組むが生活は苦しかった。収入を求めて会社勤めを始めたりした。

成果をあげたのは残留日本兵の生活を守るための互助会組織「福祉友の会」を設立しその活動に力を入れたことは評価されている。

その後一転して残留元日本兵は一定の評価を与えられるようになり、「独立戦争の英雄」として英雄墓地に埋葬される存在となった。

勤めていた会社が養鶏業に転身したとき、ラフマットは日本の養鶏業者の講習を受けるため来日している。長い間、日本にいなかった者が帰国し、どんなことを感じたのだろうか。

そのとき起居・食事を共にした日本人社員の対応には深い失望を感じている。「無愛想でまるで人形のようだ。戦前にはこのような人間は居なかった。米国仕込みなのか昔の日本人とはずいぶん違う異質なものを見て取った」。「それでも待望の靖国神社や伊勢神宮に参拝したときには、そこに戦前の日本を見たような気がした。所属した師団の連隊長以下ガダルカナル島で玉砕した戦友や極東裁判の犠牲者になった東條大将以下の霊前にも参拝し何かしらホッとした」という感想をもらしている。

外地にいた元日本兵たちは戦後になっても、元日には身を清め宮城を遙拝する習慣を欠かさなかった。祖国日本への思慕の念を絶やすことはできなかったのである。

 

(2012.12.12)  森本正昭 記