「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 157
                        Part1に戻る    Part2に戻る

赤沢史朗『靖国神社』
         岩波書店、2005

せめぎあう〈戦没者追悼〉のゆくえ

 

 

 

 

戻る

この本を開くと、各章の最初のページに一枚の写真が貼り付けられている。最初は靖国神社の大鳥居を抜けて出陣する兵士の大集団が鉄砲をかついで行進している姿。

 敗戦後になって数人の米兵が靖国神社を行楽で訪れる姿がある。写真を撮られているのを意識している様子だが気楽なものだ。このころGHQから「神道指令」が発せられ靖国神社関係者は存続をかけて苦渋したに違いない。

千鳥ヶ淵戦没者墓苑入口の写真もある。靖国神社国家保護法案が提出された頃、宗教団体の反対デモが盛んに行われた。さらに小泉首相の公式参拝のときの姿もある。選挙公約を実行したつもりなのだろうが、参拝の日程をころころと変えたのはなぜだったのか。英霊は喜んだのだろうか。

私はかつて地方の県から大型バスに乗って靖国神社参拝に来た靖国の母や妻の疲れ切った姿を目にしたことがある。一生に一度、身内の戦死者のための参拝なのだろう。戦争によってできてしまった悲しみの集団をふたたび見たくないものだ。

私の印象にある靖国神社は春秋の例大祭や特別な行事のあるときは賑やかであるが、何もない平日には参道に訪問者はまばらでなんとも寂しい神社である。

 

本著冒頭に靖国問題の政治性について書かれている。「戦没者の「慰霊」追悼はもともと非政治的な、個人の内面の自由に属する行為であって、政治的な紛争になじまないものである。しかし他方では戦没者の追悼をめぐる政治というものが実在する。追悼する主体によって公的、国家的な追悼が行われるとき、追悼をめぐる政治が発生する。戦没者の死の原因となった過去の戦争の評価と無関係でいられないし、過去の戦争の評価は広い意味で現在の政治的立場と結びついてくるからである。

そこでは誰が追悼すべき死者であるのかをめぐって、また追悼の形式や意義をめぐって政治対立が生じている。」

戦勝国では戦没者を功績によって顕彰するための施設が必要であった。功績によって顕彰することは国民的合意が得られやすい。靖国神社の前身である東京招魂社の時代には官軍の戦死者の「慰霊」と「顕彰」が結びついていた。太平洋戦争まで勝ち続けてきた国にとっては、慰霊と顕彰のための施設として位置づけられていた。これは軍国主義を国民の意識に浸透させるために極めて有効な施設として機能したといえよう。

ところが敗戦国となると戦中での国家の主張する正義が否定されたことになるので、顕彰が消えて慰霊追悼だけが辛うじて残る。それは遺族や戦友の痛切な声を背景にしている。今日の靖国問題での対立は、根本的には、戦没者は何のために死んだのかという意味づけと靖国神社の位置づけをめぐって、国民的合意を得にくくなったことに起因する。

 

この本には対立する論点が詳しく書かれている。そこには靖国神社や日本遺族会のような直接の当事者だけでなく、おびただしい数の関係者が現れ、終わりのない議論を繰り返している。国家的な問題だけに政治家が顔を出すことが多い。問題に対しては議論や対策が検討されるが、かならず反論が出てきてすべてにおいて合意が得られることはない。憲法上では政教分離の制約がなかなかクリアできない。対策や弁明が煮詰まってくると、ある一線を踏み越えるためにか首相の公式参拝が行われる。首相の公式参拝は内外の反対者に対して、これ見よがしに行われるのではないかと感じる。靖国神社への首相の公式参拝には賛否両論があり、特に中国と韓国からの激しい批判を受ける結果となっている。

しかしどのような考慮をしようとも、隣国からの非難に耐えうる状況にはなっていない。対立する論点は何かがわかっても、どうすればよいのかが見えてこない。

日本遺族会などの「国のために亡くなった者を国が祀るのは当然だ」というのは分かりやすい主張なので、非政治的で純粋な心情に基づくものとみなされる。しかし靖国神社の祭神は、すべての日本人戦没者を含んでいるのではない。国家のせいで望まない死を迎えた犠牲者も多数いたはずである。また対象者は日本人犠牲者のみにとどまらない。

戦前の軍国主義や国家神道を踏襲した型のままでよいのか。

戦後の平和主義や信教の自由の保障といった体制の転換は行われたのか。

いわゆる靖国訴訟に関しては、日本国憲法は信教の自由については詳細に人権保護の規定を有しているのに、非軍国主義化については、憲法前文や九条で定めている以上の規定はないという指摘はなるほどと思わせる。

 

この本では靖国問題を「殉国」と「平和」という2つのシンボルを用いて戦没者を捉える考え方を示している。それは戦後の占領期、50年代、60年代、70年代のそれぞれの時代によって、どちらか一方に力点を置いて語られる。たとえば60年代になると「殉国」だけを賛美し、そこから靖国神社国家護持を実現しようとする動きが登場する。「殉国」とは殉国者の顕彰が目的の国家主義的な動きであるのに対し、「平和」は軍国主義的なものを否定して国家の戦争責任を追及する立場であり、反戦論に結びついていく。

戦後日本の平和主義は、何よりも敗戦という事実から生まれたものである。

 

愛国心や英霊賛美だけでなく戦没者の叙位叙勲、軍人恩給の復活などは顕彰であるからそれが促進された時代は「殉国」に力点が置かれたことになる。護憲運動と平和運動という異なる活動が結びつき、社会運動が爆発的に広まった時代は「平和」な位置づけとなる。 右か左かどちらかというのではなく、「殉国」と「平和」はせめぎ合う関係にあり、両方の結合や併存がみられるのが特徴なのだが、最近はナショナリズムの台頭により「平和」は影をひそめている。

 

今後のことを考えると、戦死者の遺族や戦友は高齢化により対象者は減少の一途をたどっている。戦争を知るものがいなくなったとき、該当者がいなくなった後には、靖国神社はどうなるのだろうか。心のこもった慰霊と「顕彰」はなくなり、「平和」のための歴史的記録の保持管理が主業務になるのだろか。

(2014.05.18)   森本正昭  記