「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 133
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門田隆将『康子十九歳戦禍の日記』 文藝春秋、2009
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主人公は粟屋康子、東京女子高等師範、付属高等女学校専攻科3年に在籍していた才媛である。彼女は学徒動員で陸軍造兵廠の火具旋造工場に動員され作業に従事していた。物語はここから始まる。 彼女は19歳で亡くなっているのだが、当時書いていた日記が戦後60年を経て、家族から著者のところに持ち込まれた。本著はその日記、彼女が残した「私のスーベニア」という自叙伝、その他多くの書簡と取材をもとにしている。 私は学徒動員には大変な誤った見方をしていたことに気づかされた。学業に励んでいた者にとって自ら進んでその工場労働に就いていたのではないから、熱意に欠ける仕事ぶりではなかったか、さらには戦争末期には兵器を作るにも素材や部品が不足しており、工場に行っても待機状態が多かったと聞いていた。だから生産性が上がらないと思っていたのである。 ところがこの本に紹介されている事例は、まるで戦闘態勢であって、生産性も最高水準を誇るレベルである。それは康子をはじめその周辺にいる学生たちの激しい意欲によって達成されていた。鉄砲こそ持たないが生産という戦場において臨戦態勢が支配していた。 日記には「”辛い”と痛切に思うと共に、“自分はこんなにも戦っているのだ”と感じ、“之に堪えねば勝てぬ、勝つためには堪えねばならぬ”とも感じた。」「“今の世はすべての人の人格性を高めている”と感じる」などと書かれている。 私の誤解はもう一つある。この本を取り上げたとき、まず目次を見た。各章の見出しは「第2章、引き裂かれた家族」「第3章、運命の年は明けた」「第4章、思われる苦しみ」「第7章、別離と東京大空襲」「第11章、広島からの悲報」などである。学童疎開、東京大空襲に広島、それを見ただけで内容の流れが読めてしまい、これは重い悲劇を読まされることになると覚悟した。 しかし著者は「諦観」という言葉を使って説明している。この言葉は「人生の真相を明らかに見抜くことを意味し、確かな洞察力をもって生きることを表す」という。 私なりの解釈では、与えられた境遇を受け入れ、その中で最大限に生きることを意味しているのではないかと思った。 暗然とした物語は、末の妹が学童疎開で長野県松本市の浅間温泉に出ていくことから始まる。その先の運命を予感したかのように妹は泣き続けるのだった。しかし母の優しい言葉にやがて従う。「当時は幼くても、それだけの覚悟が必要な時代だったのである。」 父は広島市長を勤めているのですでに別居している。後に東京大空襲の罹災状況から、母と弟も広島に行ってしまう。 ここで大切なのは残された日記である。これは今になってみると貴重な記録である。康子は家族思いなので、離れていった家族に優しく励ましの言葉を送っている。 康子は学徒動員の仲間たちからも、信頼され尊敬を集めている。とりわけ中大予科の高木丈一郎、梁敬宣、長瀬冨郎、同窓の竹内増枝の名前がしばしば出てくるのだが、彼らは同じ区隊で働いた仲間である。この区隊長だった本井田少尉は優れた指導者として紹介されている。学生たちはこの人物に敬意を払い、康子は憧れ以上のものを感じていたようだ。 しかし本井田少尉の転属、動員替え、同僚に召集令状が来るなど悲しい別れを体験する。 動員仲間の藤江英輔が作曲した「惜別の歌」がお別れの場で歌われるようになった。死ぬことが当たり前だったあの時代、若者はこの歌と共に言葉にできない感情や思いを胸に戦地へと赴いた。 この歌は後に全国的に普及していく。「惜別の歌」が生まれた秘話を紹介しているのがこの本の特徴の一つである。 もう一つは父・粟屋仙吉は昭和史に名高い「ゴー・ストップ事件」の警察側当事者であったことであろう。仙吉氏は「警察官僚時代、この事件に遭遇し、軍部に対して一歩も引かなかった気骨、またクリスチャンとして、文民として教養人として尊敬の念を抱かせていた」人物だった。この親にしてこの子ありの感がある。 ところが一発の原子爆弾が粟屋仙吉・幸代夫妻の家族を崩壊させてしまうのである。 当時の関係者は戦後60年を経た今なお、当時の康子の記憶を鮮明に留めているという。 「焦土の中から立ち上がった日本は、戦後、なぜかくも発展を遂げたのだろうか。私は、それを、日本人は絶望の中でも誇りと気高さを失わなかったからではないか」 と著者は『おわりに』で述べている。 (2011.11.26) 森本正昭 記 |