「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 136
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山室寛之『野球と戦争』
          中央公論社、
2010
   日本野球受難小史

 

 

 

 

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東京ドームの一角に鎮魂の碑が建っている。それは戦没プロ野球選手の慰霊碑である。全部で69人の名前が刻まれている。私は『野球と戦争』というタイトルから、まず想像したことは戦没したプロ野球選手の活躍とその死についても、書かれているだろうなと思った。少数ページを割いているがあまり情感が伝わらない記録としての書き方である。

新書版264ページの本であるが、内容は豊富である。読んでいくと、その倍くらいの厚さを感じるほどである。著者は新聞社で日本の野球史を振り返る連載企画「われら野球人」を担当する幸運に恵まれたと書いている。話を交わした野球人は300人におよぶとか。取り上げている試合は記録だけではなく、試合の経過が細かく書かれている場合が多く、戦前から戦後にかけて、野球に情熱を燃やした人には読み応えのある本になっている。

冒頭に挙げた慰霊碑には戦前の名選手が刻銘されている。中には特攻隊員として出撃した石丸進一の名もある。3度も召集された澤村栄治は東シナ海で戦没した。

著者の場合、全編にあるのは野球がしたい、熱のこもった一戦を見てみたいという野球狂の立場であろうか。それはそれでよい。著者の人柄からくるものであろう。

 

内容は大きく戦前、戦中、戦後の話題は別れている。

戦前の野球は今日では想像し得ないほどの大ブームを来していた。とりわけ東京六大学野球と選抜中等学校野球大会が人気があった。その優勝校にはアメリカ遠征という豪華プレゼントがあり、アマチュア選手なのにまるでスター扱いであった。とりわけ早慶戦は人気があった。天覧試合のあった神宮球場は早朝から満員札止め、入れない観衆が場外にあふれた。それで外野スタンドが拡張されることになった。さらにはラジオ中継で人気が爆発的に広がっていった。

野球ブームの到来で観客が増加し、各野球部の財政事情が一変したという。

しかしやがて戦争の暗雲がたれ込め始めると、米国生まれのこのスポーツに対して風当たりが厳しくなった。「野球統制令」によって弾圧されるようになっていった。

戦中はこの「野球統制令」に耐えていくしかなかった。野球への強い逆風が軍部、文部省、大政翼賛会から吹いた。愛知県では米英的競技を徹底的に排撃し、日本古来の武道ならびに銃剣道の高揚を決議している。

戦後、野球は復活の時代を迎える。自由を謳歌するかのように広がっていった。

用具がない。靴がない。人数が揃わない。食べ物がなくいつも空腹を抱えていた。あったのは焼け跡を含めた広場だけではなかったか。興味を持っていたのは男子だけだったが、とにかく野球をやりたがった。

私の場合は野球狂ではなく見るだけの野球ファンである。それでも野球再開の動静を追いかけていく各地の話題が面白かった。

昭和21年の夏、戦後初の全国中等学校野球大会が西宮球場で行われることになった。各地域で予選を勝ち抜き代表校が選ばれたが、各校の選手たちが西宮への大遠征をしてくるのだった。列車の混雑と遅延、食糧事情が悪く、米やジャガイモをリックに詰めて担いでくるのだが、それが盗難に遭うこともしばしばあった。一番乗りは函館中学だったが、持参した米は数日分しかなく、勝てば食糧が底をつくので、勝ったら引き揚げるつもりだったという。おまけに闇屋の集団といざこざに巻き込まれたりしている。

食糧の準備が数日分しかなかった松本市中は一回戦が不戦勝になり次の試合までの食糧がなく途方に暮れていると、後援会が米や野菜を調達して運んできてくれた。

用具もなく、ボール集めに苦労した。特に捕手はレガースを付けていない捕手も多かった。代用品を竹竿と厚い布で作った。剣道の面や胴着がマスクやプロテクターとして代用された。

空腹、折れたバットとゆがむボール、平古場の3つが戦後初の中等野球大会での話題であったという。とりわけ平古場は戦後スポーツ界初のエースとして当時の球児たちに強い印象を与えていた。読み方が分からないので、「ヘイコジョウ」と呼ばれ噂が広まっていたのは笑える。

 

野球復活のテンポは想像を超えて急速であった。なぜ日本人にとって野球はこれ程までに好まれたのだろうか。最近は事情が激変している。野球以外のスポーツが普及したせいでもある。巨人戦中心のテレビ中継は下火になった。日本のプロ野球中継は大幅に減って、米大リーグでの日本人選手の活躍振りに視線が移っている。

 

終わりに、ふたたび冒頭の慰霊碑に戻るが、プロ野球界は戦没野球人に黙祷も捧げないと上田龍氏がブログで嘆いておられるが、同感である。

この記憶は平和を維持するためにも忘れてはならないのだ。

(2012.03.07)  森本正昭 記