「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 158
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ヨーゼフ・マルティン・バウアー著、
平野純一訳『我が足を信じて』     
          文芸社、
2012

 

 

 

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極寒のシベリアの強制収容所を脱出し、故国ドイツに生還した男の物語である。

シベリアと言えば多数の日本の兵士が強制労働の犠牲になったシベリア抑留を思い出す。

このサイトではあまりにも悲惨な戦争の悲劇をテーマにした作品の紹介は避けてきたのだが、ドイツにも同様の悲劇があったことを知る。

戦争の悲劇に取り組んだ小説というより、類い希な冒険物語という立場から、世界中で翻訳出版されてきたようである。「9000マイルの約束」という題名の映画化もなされた。それでもなお、ソ連の行った非人道的な戦後処理について忘れてはならない。スターリンは捕虜を労働力とみていた。そのため苛酷な強制労働を架していた。人道という言葉の意味を知らなかった。また世界的な貿易の不均衡を生みだす問題を回避するため、賠償は外貨や正貨支払いではなく、役務や現物による支払いを要求したという説もある。

同様のことが帰国を待ちわびていた日本の兵士たちに対しても行われ、シベリア抑留という悲惨な体験をしなければならなかった。その実態を明らかにするため、このドイツ兵の単独脱獄の事例を紹介することにした。

 

主人公はクレメンス・フォレル。脱獄を決行したのは1949年10月30日で、1952年12月22日、夢に見続けた妻のいるミュンヘンに帰還している。実話と思われる。フォレルはドイツ軍の落下傘部隊にいた軍人である。東部戦線に送られた後、負傷して囚われの身となる。悪名高い刑務所に送られ、シベリアでの重労働25年の刑が架せられた。

彼は鉛鉱山で鉛鉱石を採掘する重労働に従事したが、鉛は脳と足に致命傷を来すとして知られている。

この本の前半にその実態を最もうまく表現している一節を見つけ出した。

 

「ドイツ人たちは懸命に働いた。来る日も来る日もフォレルは岩を掘り続け、1フィート進むたびに次の掘り手と代わりながら、鉱山の中心に向かってゆっくりと坑道を拡げていった。

最初のうち、切り傷だらけのやつれた体は悲鳴を上げ、この境遇からの逃避ばかりを望んでいた。彼が自分の限界を意識させられるのは、硬い岩を強く叩き過ぎて跳ね返された時、あるいは負荷のかかり過ぎから筋肉が音を上げて激痛が起こった時のみであった。

しかし、時が経つにつれ、悩みの種はだんだん洞窟そのものになってきた。いつも重くよどんだ空気に満たされ、鈍く光る壁に囲まれた洞窟に朝5時には監視兵がやって来て、彼を眠りから引き離す。その叫び声で、極度に疲労した体を無理やり目覚めさせられると、一瞬、自分がどこにいるのか忘れることもあった。

さらにもう少し後になると、天地四方を岩で囲まれた環境そのものが精神的苦痛の原因になってきた。薄暗い中で働き、暗闇の中で眠り、そしてまた薄暗い中で起床する生活では、最初は怯え、それから憂鬱になり、次いで耐え難い抑圧感に悩まされ、最後は狂乱状態に追い込まれた。他の仲間たちも同様の経験をした。

そのうちフォレルは閉所恐怖症から回復したが、それは洞窟内には窒息という恐れはなかったからだ。空気はたっぷりあった。しかしながらそこには鉛もたっぷりあり、鉛害の恐怖が囚人たちの生活に重苦しく影を落としていた。鉛中毒は長期になると致命的になるということだったが、25年は確かに十分すぎるほどの時間であった。」

ロシア人とこの忌々しい気候、この荒れ果てた辺境を呪い、罵っていた。

脱出という考えが蘇り、突然めらめらと燃え上がった。過去には仲間たちがそれを実行しては捕らえられ、悪環境に戻されてきた。

 

文中に、秋が脱走の季節であると書かれているが、冬を目の前にして脱走に適した季節とは疑問に思った。夏では雪解けで小川も増水で溢れ、行く手を阻むからだという。

 

シュタウファ医師はフォレルの脱出に事細かな計画を練り上げ、必需品の準備をしてくれた。決行は日曜日に決まった。日曜日には監視兵たちが、仲間同士でいつもより多くウオッカを飲むからね。と医師は言った。医師は自分が脱走すべきなのだが、私は癌で死にかけているんだ。妻への伝言を頼むとフォレルに依頼した。そして幸運を祈ると。

 

脱走したドイツ兵を追いかけて疾走する犬ぞりの恐ろしい気配を感じた。

地図にない海を見た。海に近づくことは、権力を持った兵士のいる場所に近づくことを意味する。シュタウファ医師はそれは危険なことだと言っていた。

 

極寒のシベリアを抜けていくとき、土着の先住民に出会い、彼らだけしか知らない生きる術を教えてもらった。地面に生えていた苔を剥ぎ取って焚き火をする方法、皮のなめし方、トナカイの群れとの付き合い方などである。対応の仕方は愛想がよく無能だと思わせることだった。これが安全の最高の保障になる。

 

4月の初めまでコリャーク族のテントに滞在した。不思議なことに彼らはフォレルの到着を前もって予知していた。不思議な本能によって、しばらくの間いなかったトナカイの群れが帰って来ることも知っていたようだった。

3人の悪党ロシア人とも生活を共にした。

シベリアの西方は荒涼とした風景であり、そこに潜む危険も多かった。野生動物の狩りを楽しむ冒険の日々が訪れた。大量の毛皮が手に入った。この生活を続けているうち、故郷に帰ることが遅くなることを厭わないほど楽しいこともあった。

やがて一人が隠し持っていた砂金の袋を奪い合うことで殺し合いが始まるのだった。

悪人の一人はフォレルを崖の上から突き落とした。

その結果、所持品をすべて失った。その上オオカミにつけ狙われているところをヤクート人に助け出されたのだった。

自分はドイツ人、戦争捕虜だ。もし真実を話したら、彼らは自分をロシア人に売るだろうか。不本意な嘘をつくよりも真実を率直に伝える方が、かえって印象がよいのではないかと思うようになった。

1951年夏、はるかなるゴールへの第一歩を、精悍な容貌をした忠実無比な犬とともに踏み出すことができた。ヴィレムという名のボディーガード犬であった。

以前には、空腹であるほど、一日に進む距離が増えることに気づいていた。ここではゆっくり旅になった。あまり距離はかせげなかった。

景色はこれまででもっとも美しかった。繁茂した植物が通行を妨げた。

チタ、ウラン・ウデに行く木材輸送列車に乗った。ロシアの役人から尋問を受けるのだが、知的障害を装って嘘を付き続けた。

 

ロシアの国境を越えるところが最も緊張する場面となった。ここでは地下組織の一員と思われる人々の手助けにより、国境での道案内をしてもらった。

訳者は敵国の人々からの優しさ、敵国の人々からの手助けを受けたと「訳者あとがき」に書いているが、敵や敵国ではなく、その地域の先住民族の土着的愛情に助けられたのだと私は思う。

自分がクレメンス・フォレル本人であるという証明は一枚の家族写真の裏に母の誕生日の日付がフォレルの自筆で書いてあったことにより判明。自由世界に辿り着くことが完成したのである。シュタウファ医師との約束の伝言を彼の妻に会い伝えることもできた。

 

(2014.07.17)  森本正昭 記