「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 106
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女性の日記から学ぶ会編、
島利栄子監修
『手紙が語る戦争』
2009
              みずのわ出版

 

 

 

 

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 最近よく使う言葉に、「がんばって」というのがある。受験やスポーツの試合に臨む若者に対していうだけでなく、日常の挨拶言葉であるかのように、何かと「頑張ってね」という。障がい者の某氏はこんなイヤな言葉はないと言っていた。自分は充分頑張っているのに、まだ頑張れとあなたは言うのですかというわけである。

私は戦時下ではどんな言葉を交わしていたのかに興味があり、この本を手にとった。全文を読んでみて「頑張って」が使われているがごく少ない。挨拶言葉としては見かけなかった。戦時下の人々は一様に頑張っていたので、いまさら頑張れでもないだろうということであろうか。

 

さて「女性の日記から学ぶ会」およびこの本は、無名の人の日記や手紙を集め保存し、次世代に伝える史料として活用することを目的としている。この本に紹介されている事例から、その目的の意義がよく理解できる。以下にその一部を挙げてみたい。

 

「戦地へ書き送った妻の思い」 片岡良美

「戦時下、書簡を通して支え合った妻・宗子と夫・誠。誠が戦地から持ち帰った宗子の葉書からは全身で人を思いやることの尊さが伝わってくる。常に命と向い合いながら、相手を思い記す書簡。一文字一文字に込められた精一杯の思いが、魂となって届くのではないだろうか。」

戦争末期になると、ようやく宗子の許にとどいた誠の書簡には「返信不要」とあり、さらに彼女が書いた手紙が束になって返送されてくるようになった。部隊の転戦や配送手段の途絶などにより交信の道が絶たれてしまったのだった。

 

「戦地から家族に宛てた92通」 長田松代

これは比企傳作氏が家族に書き送った書簡(葉書79通、簡易的な手紙8通、封書5通(遺書1通))をもとに長女の長田松代さんが書き綴ったものである。昭和16年から19年にかけて戦地(満州から沖縄に転戦)から送られてきた。家族は祖父母、母と3人の幼い姉妹で、住居は千葉県検見川町にある。

 

(以下は著者の書いた文章を切り貼りして作成しました)

「昭和16年、父は出征したが、幼かった著者は父を見送った記憶がないという。

父がいなくて寂しいと思うことなく育ったけれど、高校入学の時、就職の時、そして結婚の時、父のいない子であったことを悔やまれてならなかった。

気がついたときには、父はいなかったので、子供心に戦争―戦死という言葉は外に出せない塊となって、胸の中に納められていました。

それが戦後、しかもごく最近になって、父の手紙が出てきてから、ずっとその手紙と向き合ってきました。父の気持ちをこの胸に抱きしめた幸せは、言葉に尽くせません。

著者の名前「松代」の字には、手を添えて、「お父さん」と言わずにはいられませんでした。父に逢えたような錯覚すらおきました。

父の手紙を一枚、一枚読むことで父に近づき、父に愛されて育ったのだという宝物を見つけ出すことができたのです。

一度でいいから記憶に残る再会がしたかったと思います。」

父がかつて所属していた部隊が全滅したとされる戦地、沖縄・浦添の洞窟を訪ね、慰霊供養をしたとき、「お父さん」と大声で泣き叫ぶ様があまりにも痛々しい。

 

「戦地から届いた兵士たちの葉書(1)」伊藤伸子

「戦地から届いた兵士たちの葉書(2)」細田寸海子

小学6年生のとき、担任の先生が皆で千通の慰問文を書くことを提案する。生徒たちはせっせと手紙を書く。戦地であまり手紙の来ない戦友の名前を知らせてもらう。その結果、たくさんの兵士から軍事郵便が届く。著者・伊藤さんは日記に嬉しくてたまらないと書いている。

全然名前も部隊名も知らない兵士からも葉書が来た。戦争末期には「海軍の兵隊さんへ」のように宛名も明らかでない慰問文を書くことが増えていく。

 

私が疑問に思ったことは、知らない小学生から慰問文が届いたからといって、空腹と疲労で弱っている兵士たちにとって、うれしいものだろうかということである。

しかし戦地から送られてきた葉書をみると、この疑問を完全に打ち消してくれるほど感謝されている。

「過酷な戦場にあって、検閲という制約を受けながら、異国の季節の移ろい、風景、住民の風俗等を細かく綴り、それらに重ね合わせて故国を偲ぶ文章が多かった」という。

純真な小学生の心が戦地の兵隊の心を慰めていたのである。

慰問文の数は、日増しに増えて行き、戦地よりの手紙も次第に増えていったという。そればかりか、帰還した兵士がわざわざ慰問文送付者の自宅を訪れて感謝を述べたり、戦後もずっと交流が続いた人もいる。

私も小学生のとき、慰問袋を作り、戦地に送ったことがあった。しかし、返信はまったくなかった。それは戦争末期のことで、たぶん南の海の藻屑になったのであろうと思う。

(2009.09.11)  (2017.04.11.) 森本正昭 記