「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 126
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稲泉連 『ぼくもいくさに征くのだけれど』
竹内浩三の詩と死
     中央公論新社、
2004

 

 

この絵に似たひょうきんな人物であった?

 



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詩人・竹内浩三の生い立ちから戦死地フィリピン・バギオ訪問までの取材記録をまとめたものである。

1章       姉と弟、2章 伝えられてゆく詩、3章 バギオ訪問 からなる。

この中で、2章は竹内浩三が無名人から著名な詩人にかつぎあげられる過程を追いかけており、著者が最も力点を置いたところである。また本書の特色になっている。

 

アア

戦死ヤアハレ

兵隊ノ死ヌルヤアハレ

コラエキレナイサビシサヤ

国ノタメ

大君ノタメ

死ンデシマフヤ

ソノ心ヤ

これは竹内を有名にした詩「骨のうたう」の一節である。この詩、伊勢市(旧宇治山田市)の周辺に位置する朝熊山の頂上近く金剛証寺の塔婆供養霊場の入り口に詩碑が立っている。ここは伊勢神宮の鬼門を護る位置にある。

おそらく観光スポットとして立てられたのだろうと思って山頂近くを探してもそこには見当たらない。

竹内は「僕のお墓は小さいお豆腐くらいの四角いお墓がいい」といっていたことと、姉・松島こうが、弟の命の代償として国から支払われた補償金と同額で立てたという。弟の命はこんなにも安いのかという怒りが込められている。だから小さく目立たない。観光目的などではない。

竹内浩三は反戦の詩人ではない。兵役拒否者でもない。戦時体制に従って生きた若者としての心からの叫びを詩に託したのである。あの時代、詩人として芸術の世界で生きることは容易なことではない。おそらく軍歌で歌われるような詩でなければ通用しなかっただろう。そして天皇のため、国家のためという目的から、兵隊や国民の士気を鼓舞する内容でなければならなかったであろう。それが戦死者を「骨」といい、「戦死やあわれ」で始まるのである。

ところで「あわれ」という言葉は日本のどの地方でも通じる言葉であるが、伊勢弁でこれをいうとき、ほんとうに哀れで、救いがたい情況にあることがイメージされる。恵まれた境遇にいた人が急に不幸な情況におかれたとき、伊勢の人は「あわれやなぁ」という。いつもまわりに屈託のない笑いを振りまいていた若者が突然兵役に取られて不運な死に方をしたとする。まわりの者は「あわれやなぁ」と嘆き悲しむ。

彼は中学生のときから軍事教練をサボり、「軍人が嫌い」「日本ほろびよ」と「非国民」といわれてもしようがないことを書いていた。それでも「どうか人なみにいくさができますよう」とも願っていた。

しかし時代が変わり、「本当の自分」「人間本来の気持ち」を訴えた詩・文学を探し求めていた人々には、これぞ求めていたものだという強烈な印象を与えることになった。

それが「骨のうたう」であるが、その終わりに近い節に

「がらがらどんどんと事務と常識が流れ/故国は発展にいそがしかった/女は化粧にいそがしかった」という1節がある。現代を生きる多くの人々は、竹内浩三はこんなに先の時代を見透していたのかと驚きの声をあげる。

25歳で戦死した竹内が残していった詩や日記・手紙などは決して多くはない。これを貴重なものとして後世に残そうとしたのは、実姉の松島こうと親友たちである。最初に『愚の旗 竹内浩三作品集』を作ったのは親友の中井利亮、松阪市の市制30周年記念に戦没兵士の手紙集『ふるさとの風や』を編集した高岡庸治(元本居宣長記念館館長)、NHKディレクターの西川勉、詩人・足立巻一、全作品を編集した小林察など数多くの同志の惜しみない努力によって詩人・竹内浩三は広く世間に認められることになった。

これらの協力者には旧制宇治山田中学校の出身者が多い。この本にはまったく書かれていないが、映画監督の小津安二郎もこの学校で青少年期を過ごしていた。映画館通いに熱中し、不良学生と見られていた。中学生が映画館に入ることはその時代には禁止されていたようだ。竹内浩三も同じような生活をしていたという。彼が日大の専門部芸術学科に席を置き、映画監督を目指していたのは、小津安二郎をあこがれの先輩としていたからに違いない。

「いくさに征くのだけれど」、「なんのために勉強するんだ、なんのためにえらい監督になるんだ」と嘆いていたのではないか。

(2011.05.02)   森本正昭 記