「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 155
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『修身教科書』 金谷俊一郎
渡部昇一監修『国民の修身』 渡部昇一監修『国民の修身(高学年用)』
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戦前・戦中の修身の教科書を現在になって再評価している本を取り上げた。金谷俊一郎の著書は「尋常小学修身書」4〜6学年の教科書を、軍国主義的な内容など、「毒」の部分を取り除いた上で、現代語訳にしたものである。渡部昇一監修の方は低学年用と高学年用に別れている。高学年用は「我が国」「公民の務」「祖先と家」「勤勉、勤労」「自立自営」の5項目に編集者が分類し選択掲載されている。ここには金谷氏の言う「毒」の部分も含まれている。どちらがよいかと問われれば、利用目的によってご自由にと言うことになろうか。私は天皇崇拝や忠君愛国をどのように教育していたのかに関心があった。選択的掲載であるが、『国民の修身』では現代語訳だけでなく、原文のままで読むこともできる。 4年生の教科書に「よい日本人」という徳目がある。そこにはそれまでに習ったことのまとめが書かれている。「我らはつねに天皇陛下の御恩をこうむることの深いことを思い、忠君愛国の心をはげみ、皇室を尊び」などと書かれている。日本人に一番大切なつとめは忠義と孝行であるという。これらは古い世代の心得であるから理解しがたいが、これに付帯する多くの心得(規律正しく、学問、身体、克己、自立自営の道、志を堅くなど)が書かれており、それぞれ分かりやすい事例があるのでこれを読めば現代の児童にも理解しやすいと思う。
私は国民学校1〜3年生のとき、修身の授業を受けていた。そのときどんなことを習ったのか思い出そうとした。思い出せたのは、ヨクマナビヨクアソベ、ナマケルナくらいである。当時すでに日本は敗勢に立っていたので、男の先生は兵役に取られており、修身を教える先生が居なかったのかもしれない、校長先生が特別に教えてくれたと記憶している。 「修身」のいわれは『国民の修身』の冒頭に紹介されている。 徳川時代に儒学が普及し、四書の「大学」の中の教訓を「修身・斉家・治国・平天下」という言葉に要約したものが武士階級の人々に記憶されるようになった。 中江藤樹(1608~1648)の言葉に「庶民も天子も、人間としての基礎になるのは同じこと、つまり修身なのだ」とある。小学生だけではなく、誰にでも必要なことである。 新渡戸稲造がド・ラヴレー(ベルギー、法学者)にあなたのお国の学校には宗教教育はありませんよね。それでどうして道徳教育を授けるのですかと質問されたとき、新渡戸は即答できなかった。諸外国では宗教の教会で道徳を教えていたのである。新渡戸は日本人には武士道があるとして、1900年に『武士道』を英文で公刊し、世界中から絶賛されることになった。それは狭い意味での武士の道ではなく「日本の魂」を外国人に理解してもらうための書で、世界にデビューし始めた頃の日本の名声を高めたと言われている。そこでは道徳規範が体系的に語られていた。 戦前の道徳教育においては『教育勅語』が根幹をなしていた。教育勅語はすべての小学生が暗記すべきものとして、4〜6年生の修身教科書の冒頭に載せられていた。私は上級生が懸命に暗記している様子を見た記憶がある。とても辛そうであった。 修身教科書で、忠君愛国や軍国主義的記述は理解しにくいが、それ以外では、よい話がたくさん書かれている。今では古典と言うべき話しが多いが、挿絵入りで興味を持てるし、これが幼少年期の子どもによい影響を与えていく。よい話しは記憶の底にすり込まれる(渡部)。 大震災のような災害に遭っても、日本人は力を合わせて助け合い生きていこうと努力する。その態度は諸外国から高く評価されている。同じ状況下で、他の国では人々は暴徒と化し、商店へ押しかけて略奪行為を働くのを映像で見た。日本人の記憶の底に好ましい品性がすり込まれているせいであろうか。 採用されたお話しはどのようにして選ばれたのかに興味が湧く。現在と違って過去には教科書に取り上げられるほどの美しい話しがたくさんあったに違いない。時代背景は現在からはかなり離れた時代を感じさせるものが多いが、かえって修身の基本を教えるためには適切な話題になっているという気がする。 文部省が全国から公募した「知らせたい美しい話」に採用されたお話がある(4年生)。ドイツの商船ロベルトソン号が沖縄・宮古島沖で大嵐に遭い遭難したとき、宮古島の人々は身の危険も忘れて遭難者を救助し支援した。やがて元気を取り戻した船員たちに船を貸して本国に帰らせたという。これは美談中の美談と言ってよい実話である。ドイツの皇帝はその話に感動して記念碑を宮古島に建立したという。このような話しは日本には他にもいくつもあるようだ。その熱意は人々の心に響き渡るものがある。 現代は相互依存社会である。国と国の関係にも相互協調が求められる。この観点からの修身にはもっともっと力点を置かなければならない。戦前の日本は全世界からみれば新興国であった。新興国は先進国に追いつこうとして、自国だけの利益や内向きの見方が優先する。グローバルな見方・考え方が必要である。他国とりわけ隣国の国民に接する態度を改めなくてはならない。 最近では過去の歴史認識や領土紛争を巡って隣国との対立が過激化している。日本人にはグローバルなものの見方・考え方が欠けているのではないかと思う。現今では右向け右のナショナリズムが台頭している。宇宙から見る国境紛争の無意味さを知らなくてはならない。道徳教育はこの問題をどのように教えていけばよいのだろうか。大切な課題である。
(2014.03..27 森本正昭 記) |