「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 160
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NHKテレビ 『少女たちの戦争』 197枚の学級絵日誌 平成26年8月14日放送、オンデマンドで配信されている
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マンチェスター大学講師、英人ピーター・ケープは平成26年4月、戦時下の日本を研究するために、この取材を行った。その活動は大きな戦禍の跡を追うのではなく、戦場からかけ離れた、のんびりした田舎町での日本人の生活を知ることにあった。場所は琵琶湖のほとり滋賀県大津市瀬田町である。ここは田園地帯で少女たちは昭和19年当時、瀬田国民学校5年生智組の児童であった。ここに登場する少女たちはいまでは81歳の高齢になっている。 担任の西川先生はありふれた日常を絵日誌に描くことを子どもたちに命じた。絵日誌の掛かりは7人だった。担任教師は表現する力を育てたいと考えたのであろう。 感性豊かな子どもたちにとって、当時は雑誌、本、絵本も手に入らない。ラジオは戦争の実況ばかり、新聞も戦争のことばかりで、文化がない、芸術がない、表現力が鍛えられる情況ではなかった。それでは自ら文化を創ろうと試みたのである。 特に指示したことはなく、見たまま感じたままを描きましょうと言っただけである。 それにしてはみごとな出来栄えである。 空襲も殺戮もない生活だが少しずつ戦争の影が忍び寄ってくる。 昭和19年4月、今日は入学式でかわいい子ども達が入学してきた。私たちは決戦下の小学5年生である。明日から気ばりましょう。 お腹のふくれる歌を歌いましょう。といって先生が教えてくれた歌は、 親子丼、おすしに弁当、サンドイッチ、 ラムネにサイダー牛乳 素晴らしい歌だ。お天気の良い日には屋根に登って歌った。 子ども達も貴重な労働力であった。野菜を育て供出したあと、余り物で調理実習をするのが楽しみだった。 6月、絵日誌に変化が現れた。 出征兵士の壮行式に行って、どうしても理解できないことがあった。 バンザイ、万歳、本郷清信君。叔母は元気よく叔父を送り出した。おめでたいことと思っていた。でも前日はまったく違う様子だった。名誉の出征なのに叔母は目から涙が、口では元気にしているが心では泣いている。 これは公に言わんといてやと今になっても叔母さんはそう言っている。 なぜ振る舞いが違うのか、日記を書いた吉田さんは不思議でしょうがなかった。 田植えと虫取りの手伝いをした。田植えの歌を歌いながら。 米は配給制となり食糧事情は悪くなっていった。配給だけではやっていけないので、闇米を買うことになった。大人の世界には表と裏の顔があることを感じ始めていた。 疎開してきた人のこと。学童疎開の子どもが都会からやって来た。おしゃれな服装に羨望の眼差しで見とれてしまった。でも疎開は戦争が近づいていることの証しである。 17歳の兄が出征した仁平さんは絵日誌を描かなかった。妹の静江さんは目に涙を浮かべていた。たまたま川のほとりに来た時、川にメダカがいるでと言って涙を隠そうとした。 やはり寂しいのかな。 そんな風潮の中で言ってはならない言葉、寂しいとか悲しいとかは一度も書かなかった。 苦しいとか辛いとかも書いてはいけない。思いを素直に書くことは10歳の子どもには難しくなってきた。 先生が陰膳を提案した。出征した家族や知人の無事を祈る慣習である。 写真を持ち寄り、人参や大根を供える。 教室に入る時、頭を下げて入った。どうぞ食べてください。すると心が軽くなった。 戦時下でも優しい気持ちになってほしいものだ。 時代の流れはその反対の方向へと進んでいった。 竹ヤリ練習、ひたひたと戦争の影が忍び寄る。こんなことをしていても負けるのじゃないか。 内田さんが神風の鉢巻きをしてきた。掃除の勇ましいこと。気ばり方はB29を追い回すほどに。この気持ちが学級全体に伝わった。このキリッとした身だしなみや勇ましい空気が一部の団体行動から外れた子を攻撃するようになった。 好戦的な言葉が増えていった。 B29なにくその体当たり、上空を飛んでいく敵機を見るようになった。 憎らしいB29、憎らしき米英をやっつけましょうね。 銀色だったB29を黒く書いた。今に見ろ、今に撃ち落とす。 先生がもう絵日記は終わりにしましょうと言った。その理由は明らかにしなかった。 私はホッとした。憎しみを込めた言葉を日誌に書いていた自分が嫌だった。過激な言葉はどこから出て来たのだろう。 終戦直後、6年生智組の2学期の授業で、先生は作文を書きましょうと言った。 これからはアメリカが統治する世になります。どうやって生きてゆけばいいのでしょう。思いのままに書いてください。 作文のなかから一つを選んで読んでくれた。先生も同じ気持ちだと付け加えて。 家族が仲良く
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