「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 159
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高橋清四郎(著) 高橋慶子(編) 『ソ連監獄日記』 冤罪政治囚・日本外交官の獄中ノート
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ソ連による戦利品の持ち帰り、工場施設の持ち去りが続いた。 自身は同年9月ゲ・ペ・ウによって逮捕される。 ゲ・ペ・ウとはソ連の秘密警察のことで、ゲ・ペ・ウには入り口はあるが出口はないと言われていた。ソ連人ですら恐怖のあまり、その名称さえ口にしなかった。 編者は高橋清四郎の娘で父が残した「私のソ連監獄日記」ほか多数の原稿をもとに出版を考えたが、自身の生活の中で余裕がなく出版実現までには時間がかかった。その内容は稀なる実録であり歴史の証言としても価値の高いものである。 11年にわたる長いソ連抑留生活の中で、ソ連においては、監獄は最も言論が自由な所である。ソ連人と自由に語ることができた。と皮肉たっぷりに書かれているところが興味深い。 最も楽しく、印象深いものだったのは、元首相近衛文麿の御曹子・文隆砲兵中尉、元新京日本領事館中村副領事と著者の3人が同じ監房になり、日本語で話し合うことができたことだと述べている。監獄の中庭を歩行中、関東軍の防寒靴らしい靴跡を見つけた。日本人がいることを知らせたい淡い希望が隠されている。 話し好きで聞き上手、ロシア人女医と日本人抑留者との恋の相談に乗る好人物であったことが想像される。 ドイツ人は宇宙旅行、ロケット飛行、ガラス製造のことを話した。著者は四十七士のことを話した。ソ連の機械工は綿織物の織り方を喋ったが、白系露人には著者がロマノフ王朝最後の日の話をしてくれと頼んだ。まるでカルチャースクールの監獄版である。 レフォルト予審監、ウラジミル監獄、ハバロフスク強制労働収容所での体験記の他、自身のソ連感としてソ連の社会主義の問題が書かれている。大衆は党から遊離している。ソビエト社会主義は経済建設には成積を上げているが、人間改造には何事も成し得ないことを知った。スターリンの死のあと、弾圧が緩んだのか、薄日が差してくる感があった。子どもや妻から手紙が来るようになった。 昭和31年、医師が再裁判を申請してくれて、ようやく期限(禁錮刑25年)前釈放が認められた。釈放されたのは昭和31年8月、ナホトカを出港し帰国の途につく。 帰国後は抑留の経験を多くは語らず、仕事に思いを残したまま他界したと編者は述べている。 (2014.08.23) 森本正昭 記 |