「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 159
                        Part1に戻る    Part2に戻る

高橋清四郎(著) 高橋慶子(編) 『ソ連監獄日記』
       彩流社、2006

冤罪政治囚・日本外交官の獄中ノート

 

 

戻る

 

 著者・高橋清一郎は外交官、主にソ連、中国、満州の各地に勤務していた。終戦時の昭和20年には新京大使館勤務。終戦を目の前にして、首都新京は緊張と不安につつまれ、邦人の表情は暗かった。ソ連兵多数が新京に乱入し狂ったように略奪を行なっていた。

ソ連による戦利品の持ち帰り、工場施設の持ち去りが続いた。

自身は同年9月ゲ・ペ・ウによって逮捕される。

ゲ・ペ・ウとはソ連の秘密警察のことで、ゲ・ペ・ウには入り口はあるが出口はないと言われていた。ソ連人ですら恐怖のあまり、その名称さえ口にしなかった。

編者は高橋清四郎の娘で父が残した「私のソ連監獄日記」ほか多数の原稿をもとに出版を考えたが、自身の生活の中で余裕がなく出版実現までには時間がかかった。その内容は稀なる実録であり歴史の証言としても価値の高いものである。

11年にわたる長いソ連抑留生活の中で、ソ連においては、監獄は最も言論が自由な所である。ソ連人と自由に語ることができた。と皮肉たっぷりに書かれているところが興味深い。

最も楽しく、印象深いものだったのは、元首相近衛文麿の御曹子・文隆砲兵中尉、元新京日本領事館中村副領事と著者の3人が同じ監房になり、日本語で話し合うことができたことだと述べている。監獄の中庭を歩行中、関東軍の防寒靴らしい靴跡を見つけた。日本人がいることを知らせたい淡い希望が隠されている。

   外交官であった著者はロシア語、英語、中国語に、ドイツ語も堪能であった。これが抑留生活を支え、獄中日記を書かせた。おそらく自身や周辺で取調官との対立や難しい局面が多かったはずであるが、得意の言葉によって乗り切ってきたと思われる。

話し好きで聞き上手、ロシア人女医と日本人抑留者との恋の相談に乗る好人物であったことが想像される。

 しばしば監房を変えられるのだが、同じ監房に日本人がいると、特別なお正月を迎えることもできる。整列してまず宮城を遥拝し、君が代を二唱する。日本人ここにありである。他国人たちは怪訝な顔をして見ているばかりである。

 獄内の規則を破った者が一人でもいると、連座罪で監房全部の者が図書、娯楽品、新聞、ペン、インク類を1ヶ月間差し止められた。これは獄中生活では耐え難いものである。それでお話し会を開くことにした。

ドイツ人は宇宙旅行、ロケット飛行、ガラス製造のことを話した。著者は四十七士のことを話した。ソ連の機械工は綿織物の織り方を喋ったが、白系露人には著者がロマノフ王朝最後の日の話をしてくれと頼んだ。まるでカルチャースクールの監獄版である。

レフォルト予審監、ウラジミル監獄、ハバロフスク強制労働収容所での体験記の他、自身のソ連感としてソ連の社会主義の問題が書かれている。大衆は党から遊離している。ソビエト社会主義は経済建設には成積を上げているが、人間改造には何事も成し得ないことを知った。スターリンの死のあと、弾圧が緩んだのか、薄日が差してくる感があった。子どもや妻から手紙が来るようになった。

昭和31年、医師が再裁判を申請してくれて、ようやく期限(禁錮刑25年)前釈放が認められた。釈放されたのは昭和31年8月、ナホトカを出港し帰国の途につく。

帰国後は抑留の経験を多くは語らず、仕事に思いを残したまま他界したと編者は述べている。

 

(2014.08.23) 森本正昭 記