「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 122
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『空襲で焼けた樹木』(戦災樹木)     

              読売新聞、2010.09.06

写真1 浅草寺のイチョウの樹

写真2 幹の内部は焼けこげている

写真3 幹の痛ましい形状

 

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焦げた幹 沈黙の語り部

<1945年3月10日の東京無差別大空襲は東京の下町を焦土と化した。当時の名称で、本所区、深川区、浅草区、荒川区、下谷区などが中心だった。浅草寺もその中にあった。B29の大群がこの地域に焼夷弾爆撃を行ったのである。3月10日は陸軍記念日でその日をねらったものと思われた。>

 

浅草寺の境内にその樹はあるというので、実際に見てみたいと思い、私は浅草に出掛けた。浅草寺に至る参道は観光客で混雑していた。

ご神木になっているイチョウの大木というので、境内に入れば一目で識別できると思っていた。ところがイチョウの木は何本もあり、どれがその樹かを容易には特定できなかった。知っていそうな人に尋ねると「あの樹です。ご神木になっています」と親切に教えてくれた。

源頼朝が植えたと伝えられるこの樹は樹齢800年とか、近寄ってみると幹の部分は写真のように異様な形状になっていた。まるで白骨のようであった。遠くから見ると、高くそびえるほどの大樹ではない(写真1)。それは空襲時に先端頭部に焼夷弾が直撃したためだという。直後には痛々しい姿であったに違いないのだが、見事に生き返っていまは老成した様相を呈している。幹を見ると中心部は焼けこげて空洞となっている。内側には黒い焼け跡が戦時の惨状をそのままに残している。

浅草寺のイチョウの樹はこの一本だけでなく、片面が焼けたと思える樹が他にも何本かあり、東京大空襲の猛火を耐えてきた木々であることがわかった。

 

新聞記事には「戦災樹木」について調査している唐沢孝一さんが紹介されていた。このイチョウの樹を調べてみると、1945年の東京大空襲だけでなく、1923年の関東大震災にも遭って二度も燃えたという。

戦後になって、新しい芽が出てきたときは、<自分も頑張らないといけないと勇気がわいてきた>と唐沢さんは語っている。

浅草で人力車夫をしている岡崎屋惣次郎さんは<木は焼けても生き続ける。戦災を経験した木は、65年たった今でも、戦争の記憶を雄弁に物語っている>と述べている。岡崎屋さんは浅草を訪れる修学旅行生らに戦災樹木のことを語るボランティア活動を行なっている。戦争を知らない世代に語りかけるには、浅草寺のイチョウは格好の教材となっているのだ。

(2010.11.09)   森本正昭  記