「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 153
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ベルンハルト・シュリンク著、
松永美穂訳『朗読者』
      新潮社、
2000

 

 

 

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掲の『マグノリアの眠り』の翻訳者によって2000年に日本語版が出版されている。

15歳の少年ミヒャエルが経験した切ない恋の相手は、21歳年上のハンナである。15歳はギムナジウムの6年生にあたる。彼は黄疸を患い学校を長期に休んでいた。その病状が快方に向かったと思われたある日、学校からの帰り道でこれまでに体験したことがないほど気分が悪くなり嘔吐し倒れてしまう。この少年をやさしく介抱してくれたのが年上の女性ハンナである。物語はここから始まる。毎日のように彼女のもとを訪れ深い仲になるのだが、お互いの身のうちを話し合うなかで、彼女は突然激しく怒り出すということがあった。

「病気で何ヶ月も休んじゃったんだ。及第しようと思ったら、バカみたいに勉強しなくちゃいけない」と学校をさぼっていることを彼女に話した。

すると彼女は激しく怒り出し、「出ていきなさい」「バカってのがどういうことだか、わかっていないのね」というのだった。「ごめんなさい。とにかくやってみる」とひたすら謝る。

そのあとの何週間か、ぼくは本当にバカみたいに勉強し、不可能と思われた進級試験に合格し、ハンナと愛し合うことができた。ハンナは本を朗読してほしいと要求する。

朗読をし、風呂に入り、ともに過ごす一連の儀式を繰り返す日々を過ごした。

ところがハンナは突然失踪してしまうのだった。

 

この本は一度読むだけでなく、物語が判った後で、もう一度読み返すと、それぞれの場面で交わされる言葉の意味が明確に理解できる。この二回目の祥読によって読者はそのわけが分かり切ない思いに胸傷むことになる。「バカみたいに勉強」と言ったことに対して、なぜ激しく怒りの言葉を浴びせかけたのか、そのわけが理解できるからである。

 

ドイツでの戦犯の裁判は連合国によって行われた。その後、強制収容所の看守などの裁判はドイツ人自身が行った。失踪したハンナは裁判の被告人として登場する。一方、ミヒャエルは法律を学ぶ学生として、法廷に立つハンナと再開することになるのだった。大学のゼミの教授がナチス時代と関連のある裁判に関心があったからである。

ゼミ生たちは過去の犯罪の再検討に貢献するために、裁判を見、傍聴し、記録を取るのだった。

裁判は週4日、何週も続いた。ゼミ生は。その内1日だけ出ればよいところ、ミヒャエルだけは毎回出席した。ミヒャエルは法廷で失踪したハンナと再会した。被告人は彼らに背を向けていた。名を呼ばれ立ち上がったときにミヒャエルはハンナに気がついた。

 

 

著者シュリンクは法律の教授なので、裁判のことに詳しく、この物語の場面設定をひらめいたに違いない。裁判のやりとりが著者によって冷静に描かれている。

収容所の監守や獄卒が裁かれる根拠となっている条項がその時代の刑法に記載されていたか。それはどのように解釈され、適応されていたのか、法律とは何だろう。とまで考察におよぶ。

 

この裁判、被告人にとってそれほど不利な証拠がそろっていたのではない。それでもハンナが反論するときの頑固さ、反対に彼女が罪を認めるときの積極性は自身を不利な方向に導いていった。

ハンナは振り返ってぼくを見た。彼女はすでに僕の存在に気がついていたことがわかった。アウシュビッツの囚人たちを移送するとき、宿舎となった教会に爆弾が落ちて火災が発生したとき、看守たちがどんな行動を取ったかが、問題になったとき、ハンナはその命令書を自分が書いたと言ってしまうのだった。本当は文字が書けないことや境遇を隠し通そうとしたのだ。

裁判に勝利するために文盲を暴露するということまでは望んでいなかった。

ミヒャエルとしては裁判長のところに行って,彼女は文盲であると話すことも考えられた。他の被告人たちがでっちあげようとしているような主犯ではないという抗議ができたかも知れない。

哲学者である父や裁判長とも話しをするのだが、あくまでも法律を勉強する学生としての態度を貫いている。決してハンナを助け出そうとすることの助言を求めたのではなかった。

 

著者の考えていることがミヒャエルの行動にすべて反映している。短絡的な反応ではなく、あくまでも冷静である。そのため戦中に行われたことを理解するため、収容所跡を訪問する旅に出たりする。遺跡と化している無人の収容所で一体何を得ることができたというのか。

この本は世界の多数の言語で翻訳、出版され、ベストセラーとなった。読者はどのような思いでこの本を読んでいったのだろうか。この小説の主人公ミヒャエルは著者そのものであると思われる。小説作法が巧妙である。それによって読者を引き込み感動を与えるのであるが、著者のもくろみに過剰に反応する必要はない。小説なのだから。

 

ミヒャエルがやったことは服役しているハンナに10年間にわたって朗読のテープを送り続けたことである。

彼女は獄中で、原本と朗読の言葉を対比させて、ドイツ語を習得していくのである。そして彼に手紙を書くことまでできるようになった。この努力によって文盲から解放されていく喜びを感じとることができる。

ハンナの最期を紹介することは憚られる。本のベルトには「ここには誰にも気づかれずに終わった恋愛があり、戦争があり、死がある。」と書かれている。

(2013.12.15)  森本正昭 記