「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 114
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西村 滋 『戦火をくぐった唄』
             講談社、
2009

三日月センセイと三人の子と

 

 

 

 

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過去に悲しくつらい体験をした人ほど、他人に対して優しくなれる。

著者はそんな人であるに違いない。著者の書いたものには思いやりや優しさが溢れている。

先の戦争でのもう一つの悲劇は戦災孤児である。しかも学童疎開に端を発する場合には、国の権力によって親子のつながりを引き裂かれた思いがする。

三日月センセイが思い出すのは、かつて出会い生活を共にした戦災孤児たち。

 

3人の少年少女が登場する。彼らの家は愛泉園という名の養護施設である。空襲で家を焼かれ、親をも失ってしまった戦争孤児たちがここに暮らしていた。 

 

子どもたちの中に、奇妙としか言いようがない行動をする子供がいた。三日月センセイこと著者・西村 滋氏は、その謎解きをしていく。その原因が分かってしまうと、読者は涙がとまらないほどつらく切ない思いに襲われる。だから決して通勤電車の中で、この本(少年少女向きであるが)を読むのはお薦めできない。三日月センセイの話はみな作り話なんかではない、実話なのである。

子どもたちの奇妙な行動には、それぞれ歌がキーワードになっている。それを追求していくと謎解きができるのだが、ここでは決して解説などをしてはならないのだ。推理小説の犯人は誰かを最初に教えるのと同じで罪深いことである。物語には三日月センセイの深い思いやりの精神が展開する。

ここでは子どもたちの奇妙な行動の一端を紹介するに留める。

愛泉園、のフー公は柿の木の高い枝に昇って、「富士山の歌」を歌う。柿の木の上の独唱会がまた始まった。

あたまを雲の上に出し、四方の山をみおろして

 

調子はずれだけれど、元気いっぱいに歌っている。この場面を目にすると、保護者の先生たちはハラハラしてとめにかかる。柿の木は折れやすいからだ。

戦後、「尋ね人」というラジオ番組があった。戦時のどさくさや特別な事情で、消息不明になった人とめぐり会うための番組である。「素人のど自慢」でも親探し子探しに利用されることもあった。フー公は「素人のど自慢」番組に出たいと言いだした。

 

二人目はアキラ。その背景には「夕焼け子焼け」が流れている。遊び疲れた子どもたちが家路につく歌である。アキラの帰る家は、愛泉園ではない。しばしば園をトンズラ(逃走)する。「最初は駅の地下道にいた。瀕死の状態で運ばれてきた子供は、回復すればまた街に舞い戻る。貧しい施設で規則にしばられるよりも、街には自由があり、冒険があったからである。」何度か逃走を繰り返すのだが、行き先はいつも同じだった。飛び出していくのは愛泉園のある世田谷・千歳船橋、連絡が来るのは浅草の警察からである。徒歩で行くには遠い距離である。アキラは東京大空襲を体験、言問橋(浅草)のあたりで親を見失ったことを秘めている。

 

三人目はアイちゃんという少女、だれも知らない「ひなまつりの歌」をいつも歌っている。アイちゃんは雛人形を前にして歌う。

 

バスがきたきた 見えてきた

かあさん峠に やってきた/ お地蔵さんも笑ってる

 

この話はもう涙ボロボロになってしまう。著者は、「子らよ、もっともっと幸せに」と呼びかけている。

この3人の子どもたちはその後どうなったのだろうか。

著者は「戦災孤児体験のある青年は、りっぱに更生し、社会事業に貢献していたが、一年に一度の3月10日だけ、人知れず、窃盗やスリをはたらいていたという事実を事例として挙げている。過去に復讐する3月10日こそが、彼がほんとうに生きる日だったらしい」というのだが、東京大空襲のトラウマから逃げ出せない青年も今はもう老年の域に達しているはずである。いま何を思い、何を生きる糧にしているのだろうか。

 

子らよ、もっともっと幸せにと呼びかけながら、いまの子供は幸せを感じて生きているのだろうか。戦時下の子供と比べると豊かな生活をしているが、親と一緒に暮らしてはいるが、親は不在で孤児と同様の生活をしている子もいる。学校でのいじめや自殺、塾通いの時間刻みのスケジュールにはゆとりがないなど。こんなことにも著者は触れている。

 

「大きな悲しみを抱えながら懸命に生きた

小さないのちの記録と

本当の平和を望むセンセイからのメッセージが書かれている」

 

戦後、私はラジオドラマ『鐘のなる丘』をよく聞いていたことを思い出した。これは愛泉園と同様、戦災孤児の養護施設の物語であった。

(2010.03.14)  (2017.04.12) 森本正昭 記