「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 102
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中田整一『戦場の聴診器』

―ニューギニア戦で6回死んで90歳、「おお先生」は今日も走る―

幻戯書房、2008

 

 

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「おお先生」こと、三好正之医師の伝記である。

軍医としてニューギニアに従軍した体験が、この人の戦後を実りあるものに高めている。終戦を境に前期、後期に分けるには、戦時体験としての前期はあまりにも短いが、強烈な体験であった。医学校を繰り上げ卒業しているので、医学教育を受けている期間は短く、いきなり軍医となり、南方戦線に駆り出されている。

所属は第36師団、通称「雪部隊」の歩兵第224連隊である。満州か北支を希望し、希望どおり中国に駐屯する部隊に配属になるが、南下政策で南方戦線に配置換えになっている。

 

文中、戦友や部下の兵士の証言が、たくさん出てくる。これは著者・中田氏の取材によるものだが、どの人も大変な高齢者ばかりである。

元大尉・石原常安、85歳は、ニューギニアの地勢を無視した死の行軍について証言している。

内貴直次元少尉、86歳は三好軍医の戦友で、アメリカの大艦隊に取り囲まれている中を連隊の斥候任務についていた頃の激戦の証言をしている。

雪部隊の元兵士・村上千万亀、87歳は三好が軍医でありながら第一線の指揮官も兼ねていたと述べている。

軍医学校の同期生であった親友、中村晃一軍医元中尉(平成19年没、89歳)、元陸軍伍長・齋藤繁衛、87歳など。

これらの年令は、この本を出版したときの、年令と思われる。

太平洋戦争の過酷な戦争体験者は、もはや80歳代の後半以上の年令に達し、生きた証言を得ることはもはや限界に来ていることが判る。その後は想像でしか、実態をとらえることはできなくなる。先の戦争は確実に過去のものになりつつあるのだ。著者の取材も大変であったろうと感じた。そのことを念頭において、この書を読み進んでいく。

生きた戦争体験が求められるのはなぜか。

多くの情報が得やすい状況にある地域と、そうでない地域があって、三好氏が加わったニューギニア戦線は絶対国防圏(千島列島、マリアナ諸島、トラック島、西部ニューギニア、スンダ島、ビルマを結んだ線の内側)から早期に外れてしまったため、情報量が少なく、知られざる混迷が支配していたのではないか。

戦後、ガダルカナル島やインパールでの戦いについては、多くの記録や戦争小説が発表されている。だが同じ悲劇に見舞われたニューギニアについては、記録が少ないのはなぜだろうかと著者は問いかけている。

「“生きて還れぬニューギニア”とやゆされたように、生還者が少なかったことにもよるが、報道陣が従軍しなかったことも一因である。関係者が控えめに語り伝えてきたに過ぎない」と著者は述べているが、このような地域があったことを知らなくてはならない。

 

三好軍医は、死んでゆく兵士を看取りながら自問自答しつつ悩んだ。「ひとを殺すのが戦争である。ひとを殺しつつ人間の命を救わねばならないのも戦争。この矛盾、その間に身を置く我、軍医とはいったい何なのだ」と。

「食料補給はまったくないので、餓死者は増えていった。戦闘による一瞬の死には勇敢になれる者も、じりじりと確実に迫ってくる死には、かえって精神的な恐怖におののくものである。精神が錯乱し、夢遊病者となって、雨の中でジャングルをさまよい歩く兵もあった。彼らはどこへ消えたのか、永久に帰ってこなかった」

 

ひとの死に毎日遭遇する戦場で、命の尊厳を思いながら、医師としての使命感に心をゆらしていたのであろうか。

 

三好氏はその後の人生で医師としての使命感を燃やしていく。過酷な戦場での体験が、平和な時代の難事を難事と感じさせないほどの気力を持ち続けている。それで彼は、いつでも自分に安易に妥協することを許さず、困難な道を選択していく。

母校の医科大学への再挑戦、臨床研究に励み博士号を取る。山口県阿知須共立病院院長としての活躍。阿知須町長を勤める。90歳を超えてなお、地域医療の最前線に立つ。このひとの1年365日のカレンダーには休日はないそうである。

 

この文章を書いている筆者・私は、残念ながら医師というものに信頼感を持つことができないでいる。傲慢、不親切、金儲け主義、医療事故など悪いイメージばかりが医者にはつきまとう。それでも医師の世話にならざるを得ないのが実状で、なんとも悔しい。しかし、この本には三好医師のような立派な人物もいるのかと改めて感じさせるものがあった。

(2009.07.11)  (2017.04.10) 森本正昭 記