「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 144
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窪島誠一郎『無言館』
           講談社、1997

    戦没画学生「祈りの絵」

 

 

窪島誠一郎『無言館を訪ねて』
        講談社 1999
   戦没画学生「祈りの絵」第U集

 

 

無言館入り口 2008年訪問

 

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 戦没画学生慰霊美術館「無言館」は野見山暁治画伯や窪島誠一郎氏らの「戦火に消えた画学生」への思いの結晶である。1997年5月2日開館。

すすり泣きの聞こえる美術館というキャッチフレーズが書かれていた。

日高安典 比・ルソン島バギオで戦死、享年27才。

もし、お国の美術館だったら、私はきっと兄の絵をあずける気にはならなかったでしょうと弟の稔典さんはいう。

 

 無言館は私設の美術館である。

 遺品としての貴重な作品を全国から集めることには大変な労力を必要としたであろうと想像される。

 

興ろぎ武 比・ルソン島で戦死、享年28

風呂敷にくるんだ絵はまるで、ジグソーパズルみたいいに罅(ひび)われていたけれど、その絵はまだかすかに呼吸しているようだった。

 

白沢竜生 マレーのベラ州タパー陸軍病院で戦病死、28才

不運なのは一人っ子の画学生である。
両親が亡くなった後、遺作を守ってくれる家族はいない。

 

井沢洋 東部ニューギニアで戦死、享年26

兄の証言「うちは貧乏な農家だったから、こんなふうな一家団欒のひとときなど一ども味わったことがなかった」

 

 この作品集の中で制作者の略歴と作品の紹介文が掲載されている。いずれも心うつ文章が綴られている。

 

佐久間修 長崎県大村市海軍航空廠で空襲を受け戦死、享年29才。

修さんと初めてデートして、日比谷公会堂で聴いたヴァイオリン・コンサートのカタログを今も大事にしているという妻。

 

千葉四郎 満州林口で終戦、延吉へ移動後消息を絶つ。戦死公報では享年31才となっている。

両親は出征した四郎の部屋をそのままにして帰還を待ちわびていた。その両親も亡くなった。

 

高橋助幹 結核のため陸軍病院に入院。除隊後小学校代用教員として勤務。病気再発により病死。享年27才。

隔離病院でなくなったとき、妻の励ましの手紙と赤ん坊の写真がバイブルの中にはさんであった。

 

岡田弘文 ビルマのメークテーラ市街戦で戦死、享年28才。

戦争が終わったら子供たちを集めて絵を教えたいと言っていた。

 

 もし戦争がなければ、美術の世界で活躍されたに違いない。
遺品も展示されている。
 
なかでも小柏太郎氏(東京美術学校を繰り上げ卒業、1945年3月15日、フィリピンで戦死)の手帳が有名である。
 
そこには食べたいもの64種類がペン字で羅列してあり、心うたれる。
 
痛ましいが、ほほえましくもある。

ゾーニ、ボタモチ、天プラ、ウナギ、支那料理、
サシミ、アベ川、キントン、ツケ焼、ドーナツ、
スキ焼、羊カン、五目飯、シルコ、玉子焼、
干柿、赤飯、ホットケーキ、親子丼、ノリツケ焼モチ、
パン類、コーヒー・コー茶、果物類、アンコロモチ、カレー、
スープ(コンソメ)、カツ(牛、豚)、天プラソバ、菓子類、センベイ類、
飴、フライ、寿司、ウドン、アップルパイ、
焼イモ、ハム、ソーセージ、コロッケ、キスノ天プラ、
マカロニ、カレーソバ、ビフテキ、ナベヤキウドン、正月用オニシメ類、
玉子ゾーニ、肉ナベ、ゼンザイ、テリヤキ、チキンライス、
焼ソバ、蛤ナベ、サンドイッチ、キンツバ、ゼリー、
ポテト、ソバガキ、納豆、カキフライ、エビフライ、
メンチボール、甘酒饅頭、肉饅、肉ノ醤油ヅケフライ。

 今では食料はどこに行っても有り余らんばかりに売られている。食品スーパーでは賞味期限切れの大量の食品を廃棄しているのだろうが、戦争によって食べ物が極限状態にまで不足した時代のことを忘れてはならない。

(2013.01.03)   森本正昭 記