「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 107
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葉上太郎『日本最初の盲導犬』 文芸春秋、2009
表紙の写真は ’山崎金次郎さんと
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この本を読むまで、私は盲導犬と戦争とのかかわりについて知らなかった。 日本では日中戦争が拡大する中、失明軍人が急増していった。その社会復帰を促すための方法として盲導犬が注目されたのである。 そして日本に初めて盲導犬の効用を見せつけたのは、ハーバート大の学生ジョン・フォーブス・ゴードン(当時の新聞はゴルドンと表記した)であった。1938年3月19日、ゴルドンは盲導犬オルティ(シェパード犬)に導かれて、横浜港に降り立ったのである。 彼は世界一周旅行の途上であったが、日本の人々はオルティのかいがいしい誘導ぶりに胸を打たれたと報道されている。 ゴルドンは日本滞在中に臨時東京第一陸軍病院で陸軍と中央盲人福祉協会の関係者70名を前に講演を行った。彼は盲導犬を持つことがいかに自信につながるかを力説したという。 これを契機に、関係者は日本でも戦傷で失明した兵士のために盲導犬を導入できないかと考えた。しかし、これを推進していくには難問が多く、実現への道筋が見えるところまでは行かなかった。 この本の前段には、軍関係者や日本シェパード犬協会が盲導犬の導入に関心を示すが、陸軍の組織としては積極的ではなく、読者はいらだたしさすら感じるほどである。 当時、シェパード犬の協会は2つあった。愛好家は日本シェパード犬協会、軍用犬に関心のある人々は帝国軍用犬協会と分かれていた。 軍は敵兵噛殺のような戦闘行為の武器としか見ていなかった。 他方は戦闘行為の武器ではなく、社会復帰のための手段と見ていたのである。 そのため盲導犬活用は、陸軍病院を舞台にして、専門家のボランティアに実験的に取り組んでもらうという考えであったようである。 ボランティアとしての取り組みでは推進力が弱いものであったが、盲導犬を育成する方法すら分からないので、まずは実物をドイツから輸入しようということになった。中村屋の2代目社長・相馬安雄氏(日本シェパード犬協会の役員)の尽力による。 だが道は平坦ではなかった。 否定的な主張をする官立東京盲学校の教授がいた。“盲導犬は日本人には不適当、座敷に不向きな上、経費が莫大にかかる。むしろ妻帯が第一だ”と主張した。 日本では犬は鉄道の客車に相乗りすることができなかったため、移動時にはオリに入れて運ぶしかなかった。 ホテルも盲導犬の宿泊を拒否していた。 犬が来ることを拒む盲学校もあった。 この様な状況の中で、臨時東京陸軍病院で失明兵士と訓練を積み、それぞれ社会に出て行った。何をやるにも、それはすべて新しい試みであり、実験であった。 一番大切なこととして分かったことは何だったのか。盲導犬は道具ではないということである。主人と犬との相性のよさが優れた盲導犬を育てることも分かった。「主人のためになることをしたいと思う犬の性質を利用して育成する。主人もそれに応えてやる必要がある。人間と犬が互いに『楽しい』と思える部分を見いだし、その相性の良さを盲導犬の誘導に結びつけていくのである」。何よりも視覚を失った人間が絶望感から、生きる希望を取り戻すことが大きい。 うまくいった事例が紹介されている。 若松幸男さんとフロードとは極めてうまくいった例であろう。 若松さんは、鍼灸しか働く道がないなんて嫌だ。なんとか元の職業(機械用品の卸商)に戻れないかと考えていた。 支えになったのは2頭の和製盲導犬だった。その誘導期間は12年間にのぼった。 フロードはたった半年で50ヵ所の道順を覚え、得意先を回る順番まで記憶して誘導するなど有能さを充分に発揮することになった。 悲しい結末も多い。当時の食糧事情の悪さから、商店にも肉がなくなり、買って食べさせることができなくなった。平田宗行さんは、やむなく東京の陸軍病院に犬を戻すことになる。リタとの別れは辛いものとなった。 第7章から終章にかけてはまるで小説の様な展開である。活躍した盲導犬と、日本でその導入と育成を支えた人々のことがくわしく書かれている。 (2009.10.03) (2017.04.11) 森本正昭 記 |