「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 124
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水田まり『二階建ての家』

水田まり短編小説集『記憶の綵』、   
          近代文芸社、2010 

 

 

 

勢陽文芸 

 

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鍛冶屋の主人・藤助やんは息子を戦争にとられている。その子は母親が40歳になってやっと授かった大事な跡取り息子であった。戦況が悪くなると、このような子まで前線に送り込まれた。

戦後になって戦死の公報がとどいても、藤助やんはそれを信じようとしないで、帰還を待ちわびている。息子に二階建ての家を建てることに夢を託し、懸命に仕事に打ち込んできたのだ。その二階建ての家のために材木を買い集めている。

戦死の現実に目を向けなくてはならなくなったとき、藤助やん夫婦はしぶしぶ養子夫婦を家に迎えることにする。

  小品なので物語はこれだけである。

 

著者は心理描写にたけた作家であると思う。語り部のように登場する少女や藤助やんの心情を周辺の状景に投影することによって描こうとしている。

 

少女が毬つきをしているところから物語は始まるが、日本の古い童謡の無気味さが感じられる。毬つきを終わったとき、夕暮れ時でまわりにはもう誰もいない。家に帰ろうとするのだが、近所の鍛冶屋の鎚音に引かれて、仕事場をのぞく。鍛冶屋はどこまでも黒く暗い。その地下の仕事場はさらに暗い。そこに藤助やんがいて懸命に働いている。

その真っ赤に焼けた鉄を見る目は仁王さんのように恐ろしい。しかし少女が来ていることに気づくと柔和な表情もみせる。情熱的な火の色ではなく、ここでの火はもっとどす暗く怒りを秘めている。

 

養子夫婦の登場は場面を一転させる。「鍛冶屋の仕事場は、白いカーテンのかかった明るいリビングルームに一変した」とあるが、

戦争によってすべての期待はむなしく消えたことを意味している。

 

この小説、伝統的なものは次第になくなり、軽薄なものに置き換えられていく嘆きともとれる。今や毬をつく子もいない。鍛冶屋もない。若者は出征することもなくなったが、これはいつまで続くのだろうか。

 

『記憶の綵』の中に6編の短編が収録されている。

他の作品の中にも、「戦争」がときおり顔を出す。それは時代背景であって、著者の思いが特に戦争をテーマにしているのではない。たとえば、『蚕をかう女』では「この病気のおかげで戦争に召集されずにすんだ。新造は病気をしてもええことはある、と喜んだ。」「雑木類の間に点々と立つ戦没者の石碑や、」「空襲のない空に昼の花火が」など。

『沙羅』では「政三は傷痍軍人として帰還した。帰った故里の家では妻が弟と再婚していた。政三は戦死しており、」「きっとこの人も戦争で苦労されたんや、」戦争や空襲が突然飛び出してきて、読者はむしろ驚くくらいである。

この著者も戦争を知る世代の人なのかも知れない。

 (2010.12.29)  森本正昭 記