「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 121
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吉田守男『京都に原爆を投下せよ』

……ウォーナー伝説の真実

        角川書店、1995

 

 

 

 

 

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本の題名が強すぎるので、図書館の棚にあるこの本に手を伸ばすのにはためらいを感じていた。開いてみると、副題にある〈ウォーナー伝説の真実〉を検証しようとする内容であることが分かる。

 

京都、奈良のような古都に空襲がなかったのは、アメリカ人ウォーナーが古都の文化財を保護するために、米軍に爆撃を控えるよう進言していたからだというのが〈ウォーナー伝説〉である。彼は戦前に二度日本を訪れ、日本美術や仏像彫刻を研究していたことがある。戦時に彼がリストアップした日本の主要な文化財の一覧があり、これはウォーナーリストと呼ばれている。

実際に京都、奈良、鎌倉は爆撃を受けることはほとんどなかったので、戦後、日本人はウォーナーのことを〈古都の恩人〉とみなした。東京大空襲をやってのけ、原爆を投下するような敵にも、良識のある人もいたのだと日本人は賛辞を惜しまなかった。

 

ところが著者の結論は「〈ウォーナー伝説〉は全く事実無根である」という。

内容は論理的に書かれているので、説得力がある。また研究者としての論文発表もなされており、事後の反論もないようなので、信頼を寄せるにたるものと考える。

そもそもウォーナーが所属していたロバーツ委員会の目的が、ウォーナー伝説にある爆撃から文化財を守ることではなく、

「戦時に掠奪された文化財を元の所有者に返還すること、もしそれが紛失・破損していた場合には、同等の価値がある文化財によって弁償させること」にある。この目的のための文化財リストが必要で、ウォーナーはその日本版のリストを委員会に提出していたのである(発行は1945年5月)。つまり目的がまるで違うのである。

実際に、リストに掲載されている15の城のうち、名古屋城天守閣、青葉城、首里城など8つの城は戦火で焼失している。リストに掲載されたものが護られたわけではないことからも事実無根であることが理解できる。

 

では京都、奈良、になぜ空襲がほとんどなかったのか。

京都は広島、長崎につぐ原爆投下候補地であったというのである。長崎型原爆が予定されており。投下実験が行われていたことも仔細に明らかになっている。効果の大きさを実証するため無傷の大都市として温存されていたのである。

奈良や鎌倉は軍事施設や工場が少なく、空襲の順番が遅く決められていたため、敗戦時にはまだ実行されていなかったにすぎない。

 

いまこの文章を書いている私の故郷は伊勢神宮のある伊勢市である。ここは空襲にしばしば曝されていたが、本格的空襲にあったのは昭和20年7月28日で、終戦の直前であった。ちなみに伊勢神宮はウォーナーリストに星3つでリストアップされている。市街地の6割が罹災し、本宮の宮域林にトラック3台分の焼夷弾が投下されたが、社殿そのものは安泰であった。神宮関係者や軍隊が懸命に焼夷弾の火力を鎮火させ類焼を防いだという。

しかし不思議であった。この日、約40機のB29の夜間空襲を行った。どうして市街地は爆撃され、至近隣接地にある伊勢神宮は安泰だったのか。ここでも戦後になってウォーナーのおかげが噂された。私は空襲のある数日前、1機の米軍機が上空をゆっくりと旋回しながら飛んでいるのを見た。あきらかに写真撮影と思われた。レーダーによる爆撃精度がかなり上がっていたのだと思う。直撃の爆撃を避けるよう指示されていたのではなかろうか。

アメリカ軍の指揮官にも、攻撃する国に対するわずかばかりの知識はあったと思う。伊勢神宮の例でいうと、目標を避けることも、目標を破壊することの裏返しであって、照準を合わせる訓練ではなかったかと私は思っている。

 

恩人?はウォーナー以外にもいたのではないかという説については、著者はスチムソン陸軍長官などを挙げている。スチムソンは対日強硬派であったが、原爆投下から京都を除外したのは事実らしい。問題はその理由が文化財を保護するためではなく、戦後世界における国際情勢判断を考慮したと思える記述が存在する。

ではなぜこのような美談が戦後の日本に広まったのか、それは占領軍の日本人懐柔策(てなずけて抱き込む方策)ではなかったかと考えられる。

 

日本全国にウォーナー記念碑が建立されている。法隆寺、JR鎌倉駅前などにあるそうだが、これは撤去しなくてはならない。

ウォーナーは1955年死去している。そもそもウォーナーは生前、一貫して自分が古都を救った恩人であるという説を否定しており、ときに不快感を示したこともあった。否定すればするほど、その東洋的謙遜のこころが評価され、恩人に祭り上げられたのである。

 

(2010.10.14)  森本正昭  記