「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 139
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野上 淳 『小名峠』

   「勢陽」24、2012

 

 

 

 

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これは戦死者の残された家族の物語である。小名峠は三重県の奈良県よりに位置する山深い地域にある。ただし架空の名称である。

主人公・渉は小学4年生で、家族は祖父母と母と3人の子供からなっている。父は郵便局に勤めていたが、召集され、ルソン島沖で戦死している。

父が亡くなって以降の生活は苦しいものだった。母が働かないと家族を養っていくことができない。そして母には持病の癪(しゃく)があり、腹部が痛み苦しむことがあった。

祖父は「息子を戦死させてからは、何かにつけて意固地になっているところがあった。母との間もあまりうまくいっていないように」渉には思えた。この祖父が少しでも働くことができたらいいのだけれど、働いてくださいとは言い出すことはできなかった。

一家の生活が母親の肩にかかってきたとき、母は実兄が新聞の取次店をやっていたので、新聞配達をやらせてもらうことになった。当時の新聞は用紙の不足から紙1枚2ページしかない時代もあった。けれども大事に持って行く物は重く感じるものである。それに山あり、谷ありの地形をいくつも越えていかなければならないし、配布する家はあちこちに点在しているのだった。

母は「2、3ヶ月は頑張っていたのだが、無理が祟(たた)ったのか、持病の癪が出て寝込んでしまった。母にこれ以上無理はさせられないと渉は母の枕元に座って……母の細い腕や骨だけの顔を見ていると思い切って」

「母さん俺も新聞配るわ、一番遠い小名の村を俺が持つ。ええやろ」

「渉、ほんまに考えたんか。楽なことないでえ、しんどいよ、大人の母さんでさえ毎日くたくたになるんや、きつい仕事やでえ」

会話はすべてこの地方の方言で書かれている。思いやりのこもったやりとりが癒し系の言葉で話されている。

 

日曜日に新聞の配り方を母に教えて貰うため、二人で小名峠を越えようと峠に一歩を踏み入れた。急な坂道は九十九(つづら)折れになっていて渉の足はがくがくしていた。明日からは一人でやらなければならないのだ。

問題はいろいろあった。渉が学校から帰ると午後3時30分頃になる。そこから始めると夕方になってしまう。朝刊を夕方以降まで待ってくれるだろうか、不満が出ないようにお詫びしなければならない。紀州犬を飼っている家にも配らなければならない。各お宅でとっている新聞の種類を間違えないようにしなければならない。これが大変なことであった。

 

初めて一人で配る日、渉は新聞の束を小脇に抱えて、昨日は母と二人で越えた小名峠に差し掛かった。峠の登り口に鎮守の森があり、この森を支配しているかのように椋の大木がある。体力を使うことと、緊張で額に汗が滲んできた。

要領よく、この地域から学校に通っている同級生たちに、配る新聞を近所の家の分も含めて持って行って貰うことに成功する。

しかし配るべき順番を間違えたため、種類の違う新聞を配布してしまい差し替えのため元に戻らなければならなかった。暗い山の中の道を通らなければならない場所もあった。やっとのことで差し違えを入れ替えてもとの場所、小名峠の頂上に戻ることができた。

 

そのとき、亡き父が声をかけてきた。

「おい渉、その顔はなんや。無事終わったんならにっこり笑わんか。俺はいつもお前の上に居るんや」

空を見上げると雲の塊の一つが父の顔だった。母や渉が苦労や悲しさから抜けるとき、父はよくこんな形で声を掛けてくるのだった。

 

戦死者の残された家族が呼び、死者が家族を支える霊的な力が一致したとき、このような不思議な喜びの現象が起こることを渉は知ることになった。

 (2012.06.09)   森本正昭  記