「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 156
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山本浄邦編著『国家と追悼』
          社会評論社、2010

「靖国神社か国立追悼施設か」を超えて

 


『国家と追悼』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ジョン・メリル著、文京洙訳、
『済州島四・三蜂起』新幹社、1988 

 

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 この本では副題にあるように「靖国神社か国立追悼施設か」を論考する中で、その背後にあるもっと基本的な問題をらにしようとしている。

靖国問題を取り上げている多くの本の中で、この本の特徴はドイツのノイエ・ヴァッヘの歴史的記述があることと、韓国の済州島における虐殺と追悼についての記述があることであろう。(米沢薫 第3章 ドイツにおける国家と追悼)(高誠晩、第4章 済州・虐殺と追悼)ここではこの2つについて述べることとする。この本は私には難解であったので、意味を外さないように、本文の語句をそのまま援用させていただいた個所が多い。

「ノイエ・ヴァッヘ」

ノイエ・ヴァッヘは、プロイセンの国王ヴィルヘルム三世によって、ナポレオンに勝利した解放戦争の戦死者を讃える記念館として建てられたものである。

幕末期における官軍側戦死者の功績を顕彰し慰霊する目的で創建された靖国神社と同様である。ドイツ帝国、ナチス、東独共産主義政権、統一ドイツと国家の変貌を経て今日に至っている。

1931年、第一次大戦戦没者の顕彰記念館となった。ドイツは第一次大戦、第2次大戦ともに敗戦国となっているので、靖国問題を日本の場合と比較考察する意味で実態を知る必要がある。

ナチスの時代、「英雄の日」にはヒトラーがここに花輪を捧げている。それぞれの時代に戦死者の国家追悼の典型的な形であったことを示している。

隣接するドイツ歴史博物館は東ドイツ国家の歴史観を展示物によって顕示してきた。東西ドイツの統一後、そのまま統一ドイツの歴史博物館になり、国家が変貌するとその内容も新たな歴史観によって上書きが行われた。

国家による追悼は何が問題なのかについて著者は焦点となる重要な論点を3つ挙げている。

1) 誰がそこで追悼されているのか。ナチスの親衛隊が埋葬されている墓場で、国家の代表者が花環を捧げ続けてきたのだが、それはホロコーストの犠牲者には耐えがたいものであったに違いない。

2) 国家追悼と個人追悼の区別。国家による追悼儀礼は個人追悼とは明確に異なる次元のものであること。追悼は個人的な感情の問題であるが、国家の追悼にも重大な意味がある。国家の意思判断とそれによってもたらされた膨大で多様な死者には、犠牲者としての追悼が行われなければならない。

3) 犠牲者の名指しの問題。独大統領リヒャルト・ヴァイツゼッカーは戦後40年の記念式典で記念演説を行った。その中で多種多様な犠牲者を列挙している。

 

ここで国家追悼の枠組みが見直された。従来の伝統を継承するのではなく、非ドイツ人犠牲者、ドイツ人マイノリティにも視点が向けられたことが重要なポイントである。

 1993年ノイエ・ヴァッヘは多様な犠牲者を通して一つのドイツ国家の中央追悼施設として再建された。碑文に「ノイエ・ヴァッヘは戦争と暴力支配による犠牲者の想起と記念の場所である」と書かれている。

「済州四・三事件」

済州島は現在では若者が観光に訪れる「韓国のハワイ」というべき人気のあるリゾートの島である。日本や中国からの観光客も多い。ところがこの島の過去は権力者による苛酷な徴税と、それに対する抗争に対して圧倒的な弾圧や虐殺が繰り返されてきたのである。とくに「済州四・三事件」では韓国現代史において朝鮮戦争に次いで人命が大量に奪われたという。

これがどのような事件であったのかを知るため関連著書を探したのだが見当たらない。1960−80年代の軍部独裁政権が、この事件について公に語ることをタブーとしてきたからである。出版された本は発禁処分になり、報告書の類も見当たらない。関連図書として文献1をやっと探すことができた。(文献1)ジョン・メリル著、文京洙訳、『済州島四・三蜂起』新幹社、1988 

これによると済州島は政府の統制が及びにくいところから、周期的に反乱が起こる長い歴史があった。韓国本土の人々からはこの島の住民は見下されており、支配者や韓国政府からはほとんど無視されてきた。19世紀だけで6度の反乱が起きている。その都度、島の反乱軍は蜂起しては弾圧されてきた。1948年4月3日の反乱軍の蜂起は大規模なものであった。これは朝鮮の南半分で実施されようとしていた選挙に反対して蜂起したのである。反乱軍だけではなく、無実の住民多数も無惨に虐殺されていった。

韓国が1998年から10年間の民主政権期になってやっと「済州四・三事件深層糾明および犠牲者名誉回復に関する特別法」が制定され、謝罪と追悼の過去清算に着手している。

 

虐殺の経験を持つ国家は死者に菊花を捧げる一方で、右手には鉄砲と刀を握ったまま、過去の歴史叙述や犠牲者への賠償などをめぐって、再び激しい対立を乗り超えなくてはならない問題を引き起こしてきた。

このような追悼をする国家の二重性は、虐殺後の社会を生きていかなくてはならない人々に重要な示唆を与えている。

過去清算における「犠牲者審議と決定」は殺した者も殺された者と一緒に「犠牲者」として再編成することとした。そのうち韓国政府の正当性に「抵抗した者」は除外することにした。その犠牲者の数は13564名、遺族29239名に及んだが、政府から犠牲者としての公認を受けている。

この決定に対して国家元首であるノムヒョン大統領が公権力の乱用によって発生した「あやまち」に対して二度にわたってお詫びを表明した。これが真相糾明と被害者の名誉回復が未来に向かう土台になることを示す成功事例となった。

(2014.05.01)   森本正昭 記