「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 117
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松本清張『昭和史発掘1 北原二等卒の直訴』 資料1> 文藝春秋 平成22年4月号、清張生誕100年特別企画「昭和史発掘」を再発掘する 原武史 「君民一体の空間とは…北原二等卒の直訴」
北原二等卒
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この小説は部落民・北原泰作が軍隊に召集され、不当な扱いを受けたことを天皇に直訴するにいたる実話である。 前段に未解放部落民とは一体何なのかという歴史的背景がわかりやすく説明されている。この問題にあえて目を背けてきた者には教わるところが多い。 アメリカの人種差別の歴史が100年くらいであるのに対して、日本の未解放部落の問題は400年以上の長きにおよび陰湿な姿を現在にもさらしている。「旧軍隊内の部落出身者に対する差別は、そのまま現在の自衛隊にも、まだ残されている部分がある」と著者は述べている。 北原泰作は明治39年、岐阜県稲葉郡黒野村に生まれた。小学校の成績は優秀であったが、学級委員の選挙のとき、級長に選ばれながら、担任教師はそれを無視して他の生徒を級長にしてしまう。その頃から差別を意識するようになったものと思われる。 長じて、京都の水平社運動に強い影響を受け、その活動の闘士となり注目されるようになった。ちなみに水平社運動は、大正7年の米騒動に端を発し、全国各地に広がった。この運動に部落民が多数参加したことに由来する。 北原は徴兵検査の筆記試験で白紙の答案を提出した。後に軍隊に赤紙召集されるが、途上反軍演説をぶちまくった。憲兵が警戒に出動する騒ぎをおこしながら入営する。軍隊では北原が部落解放運動の闘士であることを知っていたので、上官はまるで腫物にさわるような態度で接した。入隊式の翌日には宣誓式がある。軍隊の規律をことごとく厳守し、忠実に実行することを誓わされる式である。規律とは「上官の命令は事の如何を問わず直ちにこれに服従し、…」というものだが、北原は、その宣誓も拒んだ。上官への敬礼を拒否する。など反抗的態度をとり続けた。彼の無法ぶりは連隊内に鳴りわたり、上官たちは彼を避けた。 軍隊の幹部たちは、「反抗にのってしまうと不測の事故が起こり、その責任波及が自分に降りかかることを恐れたのである。 もう一つは、福岡連隊事件のように外部の部落解放団体に騒がれるのが怕(こわ)いからだった。」 北原事件以前に、福岡連隊事件があった。この紛争では部落出身の一兵士が差別待遇をうけたことからはじまった。外部の部落解放団体が騒ぎ出した。その二の舞になることを軍隊は恐れたのだった。 「いつの世でも支配階級にとっては下からの団結が恐ろしいのである」と著者は書いている。 赤紙召集を受けた一兵卒にとって軍隊教育は、絶対服従の世界と想像していたが、こんなことが当時の軍隊でまかり通っていたのかと驚かざるを得ない。 軍隊は上下関係によって成り立っており、それ以前の経歴や身分にかかわらず、平等に扱われるはずなのだが、軍隊の中では差別が平然と行われていた。昭和2年当時である。北原二等卒の行動はそれに対する激しい抗議であった。 昭和2年、濃尾平野で陸軍の大演習が行われ、昭和天皇は統監のためこれに参加する。大演習が終われば、名古屋の北練兵場で天皇陛下の観兵式がある。 北原は整列している兵の前を通過する天皇に直訴することを考えついた。 馬にまたがって進んでいく天皇に近づいていく北原を描いた場面は、臨場感と緊張感が読者に伝わってくる。 直訴は死罪といわれていたが、結局北原に対するこの事件の判決は懲役1年という軽微なものであった。差別を受けた若者を過酷な刑に架けるとすれば、徴兵忌避運動が起こることを当局は恐れたからであろう。 松本清張氏は戦後になって北原に取材し、この小説を書いた(資料1)という。それだけに、軍隊内での北原の行動と心情がリアルに描かれていて伝わってくるものがある。ついに直訴するため、乗馬姿の天皇に歩み寄る情景に緊迫感があるが、これは北原の心理状態そのものであるのかもしれない。 資料1によれば、『昭和史発掘』には出ていないエピソードが紹介されている。北原は昭和39年、赤坂離宮の園遊会に同和対策審議会の委員として招待され、昭和天皇を写真撮影し、皇太子の質問には「あなたのお父様に直訴したことがあります」と答えたという。 (2010.06.04) 森本正昭 記 |