「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 099
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城戸久枝『あの戦争から遠く離れて』 情報センター出版局、2007
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『私につながる歴史をたどる旅』という副題がついている。これは中国残留孤児の物語である。私とはその孤児の子で、父の軌跡を追い求めた心の旅が描かれている。その道は長くかつ複雑な軌跡をたどっている。 なぜ中国残留孤児にならなければならなかったか、まずは祖父が満州国軍の日系軍官として靖安遊撃隊に入隊したことに始まる。この軍隊の目的は治安粛正であるが、多民族からなる混成部隊を思うように動かすことは難題であった。しかし当時の若者は国のために献身的な働き方をすることが当たり前だと信じていた。 この祖父が内地に一時帰国していたときに、同郷の女性と結婚して満州に渡る。そして父・城戸幹が生まれた。祖父の満州における活動を知るすべはない。「軍人としてお国のために戦い、シベリア抑留までされながら、帰国後は日本の軍人として扱われなかった。」 祖父は軍人として生きてきた人生を決して語ろうとしなかったし、父もまた多くを語ろうとしなかったからである。 この物語の前半は父が4歳のとき、参戦するソ連軍に襲われ、肉親と離ればなれになったことに始まる。孤児として中国人に拾われ、養母に育てられた経緯がくわしく書かれている。中国名は孫玉福である。日本人名が確認できたのは25、6歳になった頃である。 後半は私・城戸久枝が留学生として、中国に滞在し、父が苦労を積み重ねた中国での生きた証を追い求める。それは自分のルーツを知ることでもあった。 著者の追求は徹底している。 祖父が乗った引揚船・永徳丸が入港した舞鶴港へ出かけて行く。シベリア抑留から帰国し最初に見た日本の風景を自分も目にするためである。 また父が中国人の養父母にもらわれ、育てられた場所・牡丹江省柴河区・頭道河子村を訪れている。この村の東側に牡丹江が流れている。そこは「はじまりの河」、いわば源流である。そこでのビデオ映像を父に見せるためであるが、その徹底振りは何故そこまでしなければならないのかを考えさせられる。 養母の深い愛情によって育てられたことは恵まれたことであり、あえて日本の父母を捜し出す必要があるのかと問いかけたくなる。その先には身を切られる思いでの養母との別離が待っているからである。 祖国とは何か、それはあくまでも追い求める価値のあるものなのか。日本人を日本鬼子として排斥する社会の中で、玉福は中国社会に適応しながら、密かに日本人である自分を探り出そうとする。結果が判明してからも容易には帰国が認められなかった。 とくに文化大革命の最中では、日本人であることに身の危険を常に感じていた。しかし、玉福の場合、なにがなんでも帰国するという強い意志に支えられていた。 そしてついに養母と別れ、帰国の途につく場面はあまりにも痛々しい。 日中国交が正常化し、文化大革命が終わってから、徐々に中国残留孤児たちは本当は日本人だと名乗れるようになったのである。 後半で著者は中国人の極端な二面性に戸惑いを感じている。この本の主題とも言える個所なので引用してみたい。 「中国では、不用意に「日本人」という言葉を発することは、危険で、中国人は「日本人」という言葉を聞くと、まるで条件反射でもあるかのように攻撃的になる。「中国人たちの頭の中には、常に前提として「侵略者」「憎むべき対象」「歴史を知らない」という抽象的な顔のない「日本人」像があるようだった。」 「彼らは自分の出合った目の前の日本人が、その想像の「日本人」と同じなのかどうかを執拗に確かめようとする。」 ところが「いったんその日本人と個人としての人間同士の付き合いがはじまると、こんどは抽象的な「日本人」としてではなく、具体的な一人の人間として深い情愛で接してくる。」(著者は「牡丹江の親戚」と呼んでいる) 残留孤児たちは日本という国の「罪」を背負わされて、中国で過ごしてきた。どうしても日本に帰りたかった理由がここにあるのではないか。 そのなかで、「日本からの返事を待ちながら、ただひたすらに日本宛の手紙を書き続けていたころの父(日本赤十字社にたいして数百通に及ぶ嘆願書を送付している)を思った。身元が判明するまでは、なぜ両親が探してくれないのか…自分は棄てられたのではないかという悲しみを抱えながら、中国で生きていた。」という。 ほとんどの中国残留孤児が、日本に帰国を果たした後も、言葉や経済的な理由から日本が安住の地ではないと言っているのを、いまなお耳にするのは痛ましいことである。 大宅壮一ノンフィクション賞を受賞のほか、テレビドラマ化され、2009年4〜5月、NHKの連続6回の連続番組『遙かなる絆』で放送された。『大地の子』を超えたとして好評を得ている。 |