「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 105

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坂垣邦子『日米決戦下の格差と平等−銃後信州の食糧・疎開』

             吉川弘文館、2008

  

 

ポスターには
「疎開に御協力願ひます  東京都長官 大達義雄」と書いてある


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副題にあるように、戦時下の長野県における食糧事情と疎開のことが書かれている。

著者が長野県という地域を選んだことは、当を得た判断であり、この本の価値を高めている。全国的視点に立つのではなく、地方都市に視点をあててこのテーマを見ている。

長野県は大都市・東京への兵站基地として、兵器の製造のほか、食糧の一大生産基地であり、大きな役割をはたしていた。人口の流入も激しかった。学童疎開、戦災による疎開、軍の移駐、松代大本営、松本飛行場、軍需工場などの大規模工事が行われていたことも原因である。

ところで題名にある「格差」は、大都市から農村への疎開によって、都市生活者がいきなり農村に流入してきたことによってもたらされたと著者は解説している。

なれない食事と量の少なさによって、疎開した学童の親による大量の連れ戻し事件も起きている。農家の女性には自分たちの着ている野良着と比べ、都会生活者の着ているものはまぶしいくらいの格差を意識させたことであろう。

著者は『日録・長野県の太平洋戦争』全9巻に出会ったことが幸いしたと書いている。この文献には戦時の新聞各紙が、約6000ページにまとめられている。これには長野県内の記事を中心に、全国紙、地方紙が1日あたり2〜8ページほど収録されていた。貴重な史料となっている。

戦時下の新聞は戦局の悪化とともに次第に薄くなり、紙一枚2ページになったのを私は覚えている。紙面が少なくなれば、記事も少ない。おまけに厳しい言論統制や戦果を大々的に報じる大本営発表によって、真実の報道を見極めることは困難なのではないか。著者はそう思い込んでいたという。

 

しかし、「紙面を読んでみると、意外なほど社会事象が報道されている。国家の要求に積極的に応える市町村の、個人の美談があふれている。社説、時評、投書欄に役立つ記事が多く見られた。特に地方紙には当時の人々の生活意識を読み取ることができる。供出や勤労奉仕、軍関係学校への志願などへの協力ぶりがこまかに書かれている」。その中で、農産物の供出にたいする不満や要望なども見られる。行政への不満が書かれていたのは意外なことである。

農民の寄せた投稿を挙げてみる。以下のような記事が多数掲載されていたのは驚きである。

‘村の農業会では、「何月何日何を約十貫午前10時から午後3時までに駅に出荷すべし」と突然に申しつけられる。お国のためと信ずればこそ、不服を押さえて頑張っているが、時間すぎだと叱られ、代金の支払いは手間がかかり支払ってもらえない。これでは成績の上がらないのも無理はない。’(信毎20.7.15

早く戦争がどうにかなってくれねば困る。どこの政治になっても同じことではないか。日本が負けるならば、負けるもよい。アメリカは物資がたくさんある’(信毎19.5.31)との発言は、大胆すぎた本音の吐露であった。これはさすがに非国民的言辞を弄し、人心を惑乱したとして、この発言の農業者は検挙されている。

また信濃毎日の記者時評によると、‘いまの配給基準は明らかに悪平等といえる。大都会と地方は配給差をつけるとか、地方でも筋肉労働者と普通人、大人と子どもでは配給量を違えたらどうか’(信毎20.2.9)とある。

 

供出は東京に集中していた。軍や政府の中枢機関が集結していたからであろう。さらに、大都市での仕入れ価格が、他の中小都市のそれと比較するとはるかに高かったため、農民は高い方に搬送したのであろう。

配給は平等を建前としていたが、実際には配給する物資が限られていたため、平等な配給がなされていたのではない。平等に配給されるなら先を争って店頭に行列する必要はないからである。

 

私は小学生だった頃、米屋の店頭に並んだことがある。おそろしく横柄な態度で少量の食糧を売っていただくのである。野菜や味噌・醤油など調味料も計り売りだった。不足分を農家に買い出しに行くのだが、これも母の後について遠くの農家に買いに行ったことがある。さんざんお願いしても、売ってくれなかったことを覚えている。それでも人々は生きていかなければならなかった。ヤミと泥棒が横行した。

 

私が少年のころ、目にしたことで、強く印象に残っていることがある。それは金属・貴金属の供出である。鍋釜のような生活用品まで供出させられた。不要不急のもので兵器になりそうなものはことごとく供出を強制された。

貴金属の供出も行われた。亡夫への思いの結晶でもあるダイヤの指輪をも供出を強要させられた。かげでぶつぶつ言いながらも、表面上は自主的に行っているようにさえ見えた。これらは軍隊の兵器製造に役立つこともなく終戦を迎えたはずである。銃後の主婦たちの心情はどんなものだったのだろうか。今日の個人主義的な感覚ではとうてい理解できない、なにか「格差や平等」とは異なる次元で、強制力が働いていたことは間違いない。

 

「極限の耐乏生活の不平不満を抑え、国民の一致協力を引き出す代償は「平等」の実現であった。…「平等」への要求が異常に高まった時代であった。…配給制度への移行は、平等な分配を要求する大衆の意向に添うものであった。」などとこの本には書かれている。

しかし、資源が限られているとき、平等な配分など、ほど遠いことなので、表向きの平等であり、上から与えられた仮のルールにすぎなかったと私は思っている。 (私=もりもとまさあき)

(2009.08.21) (2017.04.10)  森本正昭 記