「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 135
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三和多美『海軍の家族』
     文藝春秋、
2011

山本五十六元帥と父三和義勇と私たち

 

 

 

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家族愛を切々と描いた物語は読む者の心に深く響く。とりわけ戦争を背景として描かれる夫と妻、父と子の物語は心うつものがある。さらに挿入された家族写真には純粋さを映し出した子供の目があり痛々しい。

著者は三和義勇大佐の長女である。

「父がいる。その当たり前のことが私たちには当たり前でなかった。」

「私たち家族はお正月に揃って家族写真を撮る習慣があった。しかし父は急に霞ヶ浦から帰ってきて11月15日(昭和16年)に家族写真を撮った。何で?お正月でもないのに。父はいつになく緊張した顔で写っていた。」

「私はホームの端まで追いかけて手をふった。「父様はもう帰ってこない」、虫の知らせが意地悪くささやく。」

後から思うと、虫の知らせではなかったかと気づくことが多い。

軍人の家庭ではよく写真を撮ったものだ。所属部隊の集合写真もよく撮った。その時点まで生きていたことを証明するかのようにそれらは残されていく。
 三和大佐は海軍航空隊の参謀長としてテニアンに出陣したのだが、航空戦を戦うことなく玉砕している。

 

この物語は連合艦隊司令長官山本五十六の参謀だった海軍大佐三和義勇の家族の話である。三和義勇大佐は山本長官のお気に入りの部下であった。そもそもの切っ掛けは霞ヶ浦航空隊で戦闘機乗りとしての訓練を受けていたことである。そこで山本長官との運命的出会いがあった。その後、山本五十六は駐米武官として滞米するのだが、三和大佐はその補佐官を務めている。

三和大佐は文章を書くことに秀でていたようで、家族との手紙のやりとりだけでなく、日記や『山本元帥の思い出』のような著述をも残している。それは山本五十六の伝記には必ずといってよいほど引用されている。

日記には「山本長官が米国駐在武官として、出発間近になった頃、何か座右の銘をと所望したところ、「  自 処 厳 他 処 寛  」というお言葉を頂く。これは元帥が一生の間、執り守られたことではなかったか。この教えに対して、三和大佐もまた、大切な座右の銘としていたようである。海軍には高潔な人物がいた。それは山本元帥に代表される。

「テニアンの玉砕で特徴的なことは、投降して帰還できた兵が他の玉砕島に比べて圧倒的に多いことだ。」「上官が自分の傍らにいる若い者たちをできるだけ後方に行かして生還の機会を与えたことがこの結果になっていると思う。「捕虜になって辱めを受けるな」とは云わなかった。」

これは暗に父君の命令で生き延びた兵が多かったことを述べているものと思う。ここには山本五十六の教えが生きているのであろう。戦後になって「生きて還れ」に従って帰還し、三和宅を訪れる帰還者が何人もいたことで明らかになる。

 

「父の書いた『山本元帥の思い出』はテニアンで原稿を書き、夫人に送ってきたものだと、ほとんどの山本五十六の伝記本に記述がある。阿川弘之氏の『山本五十六』に書かれているので他の本が追従したと思われるが、父がテニアンに出陣したのは昭和19年2月だ。思い出の掲載された「追悼号」は昭和18年のたしか9月にすでに上梓されている。テニアンで原稿を書いたということには絶対にならない。」

著者は父上が夜自宅寝室のスタンドの明かりで清書している姿を見ている。

「テニアンのような苛酷な戦いの場で原稿など書けるものではない。ものごとは正しく伝えられねばならない。」とも書かれている。

ついでながら阿川弘之氏の伝記『山本五十六』は家族の目からするといただけない。山本の妻と子ども4人の家族のことはほとんど記述がない。これを見たとき、戦時下の軍国少年が抱いていた偶像が揺れ動いた。新橋の芸者との話や博打が何よりも好きという記述が随所に出てくるのに閉口したからである。賭け事好きは本当らしい。海軍の軍人とはこういうものだという解説記事も見たのだが、なぜこのような記述によって人物像を浮き立たせるようにしたのかは分からない。戦時下の英雄であり、平成23年になっていまだに映画化される「山本五十六」について、阿川氏が伝記で伝えたかったのはいったい何だったのだろうか。

 

父・義勇氏については、軍人として必要な協調の精神と、勇敢さを兼ね備えていたので、人間関係の難しいところに配属されることが多かった。その生涯は軍人としての滅私奉公の精神と、父親としての家族愛の二律背反の道を綱渡りするような厳しいものであったという思いを寄せている。そして山本元帥から受けた教えがそれをささえていたと考えられる。

(2012.02.28) 森本正昭 記