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犬塚孝明『幕末 独立を守った”現実外交”』

     NHK出版、
2012

さかのぼり日本史「なぜ、植民地化を免れることができたのか」

 

 

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長い鎖国の時期を経てきた島国日本は、外交交渉力が伴っていなかったに違いないと想像されるが、これが然にあらずで、実に賢明な外交交渉が行われていたことをこの本は教えてくれる。最近の日本外交が、ほとんどみるべき成果を見せていないのと大違いである。

本著は幕末の頃に焦点を当て、アヘン戦争のような醜態をわが国では回避できた経緯を説明している。西欧列強が圧倒的な軍事力をもって日本に迫ってきた。重大な事件が次々と起こり開国を迫られていた。本著では神戸事件、薩英戦争、日米修好通商条約締結などの歴史に見られるわが国の外交交渉の実態を解き明かしている。それらは別々の事件ではなく、一連のつながりの中で捉えなくてはならない。

 

<神戸事件>

1868年(慶応4年)1月11日、場所は神戸・三宮神社付近、備前藩兵約400名が隊列を組んで通り過ぎていく。道を横切ろうとしたフランス人水兵が藩兵に制止された。しかし水兵は無理やり横断した。藩兵の隊長は「無礼者」と叱咤し手槍で一撃を加えた。仲間のフランス兵が短銃で威嚇すると、藩兵側は鉄砲で射撃を開始した。居留地を巡回していたパークス英国公使は港内に停泊中の英・仏・米の軍艦の陸戦隊に上陸の出動命令を出した。間もなく戦闘が始まった。神戸居留地一帯は一時的に軍事占領されてしまう。

こんなたわいもないことでも戦闘は起こる。備前藩士達は以前から外国人に対する攘夷の念に駆られていた背景もあろう。外国人側はこの機をチャンスとばかりに軍事力を行使し踏み込んでくる。賠償さえ要求してきたのである。

この事件は新政府が成立してから初めての重大な外交問題となった。この危機をどうやって切り抜けたかは後々の日本国家に重要な意味を持ってくるのである。

「万国公法」が解決手段となった。すでにヘンリー・ホイートンの『国際法入門』が漢訳されて『万国公法』として出版されていた。また幕府留学生の西周がオランダから帰国すると、ライデン大学の講義を『万国公法』として出版していた。開明派の若手志士たちはその内容を勉強し理解していたのである。寺島宗則らは弱肉強食の国際政治の現実を知っていたが、弱小国といえども国際法が盾となって国家の危機を救うこともありうるのである。

列国公使たちは、新政府の若い外交担当者の迅速で誠意のある対応に満足を感じていた。これまでの幕府のなかなか物事が決まらない交渉態度に業を煮やしていた列強国は若手の対応に至極好感を持ったのである。

それでも列強国にとって都合の良い国際法である。発砲を号令した者は、各国見聞のうえ切腹となった。この犠牲者は瀧善三郎という。五代友厚・伊藤博文らの助命嘆願にも拘わらず割腹することとなった。これは悲劇であるが、新政府は列強から信用を勝ち取り、国際的承認を得ることができた。これは西欧依存型の日本外交の幕開けでもあったと著者は述べている。

 

<薩英戦争(1863)>では英国の「圧倒的な軍事力に薩摩藩は惨敗するのだが、講和を機に敵に学ぶ姿勢に転じる。なぜ懇親の意を表するに到ったのか」

来航したイギリス艦隊7隻に大小砲合わせて85門の砲口が向けられ戦闘が始まった。英国の戦艦に損傷が多かったが、薩摩側の大砲は旧式のものばかりで、英国側のアームストロング砲の威力には叶わなかった。西洋文明の威力と攘夷の愚かさを知る結果になった。

薩英間の交渉が始まるとイギリスは犯人の処刑と多額の賠償金を要求してきた。

これに対する薩摩側は藩の政策路線を富国強兵を第一とする「一藩割拠」体制に舵を切り、交渉は柔軟な態度に変わっていった。

イギリスの軍艦購入の周旋、航海操練のための教師の雇い入れ、さらに航海術を学ぶ留学生30人の受け入れを依頼、などを薩摩藩は提案した。こうすることで、懇親の意を表したのだが、これには英国側も驚きを隠せなかったようだ。そして薩摩藩は攘夷が狙いではなく、積極的な開明をしたいという意志を持っていることを確認することができた。

近代外交の基本である友好関係(friendship)を武器にして臨んだことが交渉を良い方向に進展させることになった。

 

<日米修好通商条約交渉(1858)>では「岩瀬忠震と井上清が幕府側の全権となった。なぜ、植民地化を防ぐ最良の選択が採れたのか」

老中首座掘田正睦は開国政策を推進した。西欧列強から初めて日本に駐在した外交官は米国総領事タウンセンド・ハリスである。米国側はハリスが交渉にあたる。日本側は堀田のブレーン、海防掛目付の岩瀬忠震であった。

堀田が通商開国を決定しても、諸大名の同意を得ること、さらには天皇の勅許を得る必要があった。内部でも評定所一座や海防掛にさえ反対者が多かった。条約成立は次々と先送りされる状況の中で、ハリスは議論よりも砲弾をみまうぞという脅しを掛けたこともあった。こんな状況でも井上と岩瀬は粘り強い交渉力を見せた。

日米修好通商条約が調印されたのは安政5年6月19日、日本が列強と初めて通商関係を結んだ歴史的瞬間であった。

調印後、わずか一ヶ月の間に、オランダ、ロシア、イギリスの使節が来航し、幕府と通商条約を結ぶに到っている。岩瀬は交渉委員に加わり、相手国の使節とみごとに渡り合ったという。

後にハリスは岩瀬、井上を日本にとって偉功のある人びとと褒め称えている。国際感覚、外交感覚が一頭地を抜いているほどの稀有な存在であったという。

 

(2013.02.05)   森本正昭 記