「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 109
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NNNドキュメント09『陣地壕の印鑑』沖縄戦64年ぶりの帰郷、 日本テレビ、2009.8.2放送
読売新聞、2009.08.02 テレビ番組欄
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こんなことが本当にありうるのだろうか。 父の霊が64年間、発見されるのを待ち続けるというようなことが。 発掘と言うべきだろうが、発見されたのは一個の印鑑である。遺骨収集のために活動しているNPO(ガマフヤー代表 具志堅隆松さん)の活動家らによって発見された。その傍らに持ち主と思われる遺骨があった。身元を特定できたのは、その印鑑の名前と軍隊の認識票である。 名前は「東端」という珍しい名前だったことが幸いした。認識票の番号は山3474で、これは陸軍第24師団,歩兵22連隊に所属していた徳島県出身の兵士であることが分かった。東端という名前の徳島県出身者はただ一人(東端唯雄さん)であった。 この人は金物関係の仕事で満州に渡ったが、そのまま満州で現地召集され、後に沖縄に派遣された。調べてみると遺族は徳島県に健在であることが分かった。息子の東端孝さん(68)である。 そしてまったく記憶になかった父の情報が、伝えられたのである。 父は沖縄戦で亡くなった。鉄の暴風といわれた、激しい艦砲射撃を受けながら、トーチカ(防御陣地)で自決に追い込まれたと想定された。 場所は沖縄・西原町幸地。まるで発見されるのを待ちわびていたかのように、そこで遺骨は発見された。 子息の東端孝さんは妻とともに、その壕を訪れる。この場所で、父が亡くなったと知ると、その地にひざまづいて泣き崩れる。父は33歳で亡くなったが、自分はその倍の歳を越えていた。 土を握ったとき、父の手の感触を伝わってくるようだと話す東端孝さんの姿が痛々しい。 大島和典さんは沖縄で平和ガイドをしている。大島さんの父は同じ徳島出身で、東端さんの父とおそらく同じ部隊にいたと思われる。この人が沖縄の慰霊の地を案内してくれるのだが、親族の遺骨や遺品の見つかった人は幸せだという。 今ではサーフィンの名所となっている最南端の米須海岸で、この海の下には、おびただしい遺骨が散乱している。原野にもおびただしい遺骨が埋まっていると語る。この地は沖縄戦末期に、数万人の兵士と住民が命を落とした所である。 大島さんは、いまだ帰還できないでいる遺骨と霊に対して、深い哀惜の念を懐いている。 東端孝さんの「沖縄はいまなお戦争中なんですね」という語りが印象的であった。 遺骨と遺品は戦後64年を経て、やっと故郷の徳島に帰えることができた。 (2009.11.15) (2017.04.12) 森本正昭 記 |