「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 110
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藤田信勝『敗戦以後』、
         プレスプラン、
2003

 

1947年に(株)秋田屋より出版された同名の本を復刊した。

 

 

 

 

 

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  この日記は昭和20年8月9日から翌21年5月1日の約9ヶ月間に綴ったものである。

著者はこの時期、毎日新聞社大阪本社、社会部、文化部に勤務している記者である。
戦中日記は数多く出版されており、このサイトでも、永井荷風、渡辺一夫、坂本たね(ある裁判官夫人の日記)などを取り上げている。この日記のようにあえて敗戦以後の時期に絞ったものは少なく、歴史的事実としても価値があると思う。
著者は大新聞社の記者という立場から、8月15日以前に、時局の重大事態を知り得ていたはずである。それが日記にはどう記述されているのか。

全体は4篇からなる。第4篇『その後』は出版にあたって追加されたもので、中心は第3篇までである。

第1篇        『8.15前後』 ここでは新聞記者はどれくらい前から、事態の真相を知り得ていたか。そしてどう行動したか。

第2篇        『星条旗のもと』 占領軍からの指令に日本人はどのように対応したのか。

第3篇        『メーデーまで』 混乱期にどのようなことが起こったか。人びとはどのように生きたか。

  などと、この激動の時期を日本人はどのように生きたのか、読者は強い関心を抱かざるを得ない。

 また著者がこの日記を出版しようとした動機は何かについては

「どんな気持ちで日々仕事をしていたかを、多くの人に知ってもらいたいという衝動押さえがたいものがあった。」

「新聞の活字と活字の間に、目にみえない血管のように秘められている新聞記者の心情にふれていただければそれで満足である。」

と述べている。

またこの本の復刊を出版社に申し出たのは、孫の谷道健太氏である。
「あの「敗戦」には今の閉塞的な行き場を失った日本にとってのヒントが秘められている気がした」と述べている。
8月15日 「すでに、事の真相を知っていた僕、新聞記者としてどんな場合でも冷静さを失わぬように今日まで訓練されてきた僕は涙はこぼさなかったけれど、その場の空気は何かいたたまらぬ感じだった。」
「今日この時、見はるかすこの戦災の街には何ものも動いていない。不思議なくらい静かな、額縁にはまった絵のように動かない風景だった。」

この後、占領軍が上陸してくるまでの短い期間、日本人はわずかながら明るい表情を見せている。それは備蓄物資を個人に配給したこと、灯火管制が解除され、電灯を覆っていた暗幕を取り除けたこと、警報が鳴らなくなったことなどによる。
軍の報道部は、最近の新聞の調子が明るすぎて、敗北感が国民に伝わってないと苦情を述べていたらしい。「上陸軍の第一波は、戦場で血を見ている軍隊である。いわば、血刀をさげて上がってくるのだ。」と脅しとも思える警告をしている。

鈴木内閣が総辞職、東久邇宮内閣ができ、一方で、阿南陸相の自刃、大西瀧治郎中将が自刃した。著者は大西中将には深い同情を寄せている。


『星条旗のもと』では、東條大将の自殺未遂にふれ、「こんな男に引きずり廻された日本国民こそ、いい面の皮だった」といい、杉山元帥の自殺については立派だったとほめている。

しかし、自殺することによって、すべての責任が解消するという日本人の考え方に疑問を投げかけている。そして戦争に協力した新聞社に対しても、新聞記者無責任論を自己批判しなければならないとしている。
「天皇制も大問題だが、目下の問題はやはり食糧問題である。」  

「このごろの社会情勢の変転ぶりは、あまりにもテンポが早い。」


「敗北感が次第に深刻となって来た。新聞でも「終戦」というごまかしの言葉は一切使わないことにして、すべて「敗戦」というきびしい言葉にかえることとした。」
『メーデーまで』では、年が明けて昭和21年となる。元旦の皇室の写真の掲載の仕方について述べ、著者は天皇制批判は自由になったが、日本国民の大多数は天皇制を支持していると見ている。

外地引揚者や復員者をかかえ、一番の問題は食糧問題である。さらにインフレ、治安、ゼネスト、教育問題など難問山積である。

著者は「新聞は、大衆を指導せねばならぬ」と考えているので、これらの難問についてその動向とともに論評を加えている。
第3篇の終わりに、「感情や暴力の代わりに、理性が支配するのが民主主義的なあり方であるが、日本人が理性と自立精神を獲得するためには、まだまだ高い授業料を払わなくてはならぬのかも知れない。」と述べている。

(2009.12.15) (2017.04.12) 森本正昭 記