「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 148
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中島義道『ヒトラーのウィーン』 
          新潮社、
2012

 

 

 

 

 

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ヒトラー(18891945)はゲルマン民族至上主義を唱えてユダヤ人の大量虐殺を行った。34年ドイツの元首となったが独裁者の典型とされる。39年ポーランド侵攻によって第2次世界大戦を引き起こした。

ヒトラーに関する著書は多数にのぼる。その多くは大量虐殺を実行した極悪非道の人物として描かれている。

ところがこの本では根っからの極悪非道な人物という描き方ではない。彼は1907年、18歳のとき、造形美術アカデミーの入学試験を受けるためウィーン出てくる。そしてその試験の結果は不合格であった。絵描きになることを目指して翌年再び受験をする。2回目も不合格となるのだが、その間、同郷の友人アウグスト・クビツェクを自分の下宿に呼び共同生活を始めている。クビツェクは音楽院を受験するのだが、この結果は合格であった。ヒトラーは自分が不合格であったことを同宿のクビツェクには内緒にしているのだった。この嘘の重みに押しつぶされるようにして、複雑な共同生活が始まるのだが、クビツェクの合格を知ってからはイライラ感が増幅し、予告もなしに下宿から姿を消している。

この本はヒトラーがオーストリアの田舎町リンツからウィーンに出てくるところから始まっている。そして5年3ヶ月に及ぶウィーン滞在にウエイトをおいて書かれている。ねらいはいつから、また如何なる理由で彼が大変身を遂げるに到ったかを明らかにしたかったと思われる。当初はありふれた受験生に過ぎなかったのだから。

著者(中島氏)自身が生活を一からやり直した経験と重ねるようにして書かれているところが興味が持てる。しかし読者はヒトラーの伝記として読んでいるので、著者の体験などさして気に掛けていないが、著者自身のことにかなり関わりを持って書かれているのでそれはそれなりに面白さがある。

東京大学大学院博士課程の道を閉ざされ、予備校教師から一転してウィーン大学に私費留学をするためにウィーンの空港に降り立つ。後に世界を動かす政治家になったヒトラーとは似て非なるものなのだが(失礼)、目標を叶えていない若者の孤独感だけが妙に似ていて面白い。「ウィーンに着いたとき、私はすでに33才であり、ヒトラーは18才の少年であった。私は極東の国からはるばると…」とあり、ウィーンでの下宿事情と著者の下宿生活までも詳しく説明している。

このふがいなさがこの本を書き上げる原動力になっているのではないかと思える。

 

ヒトラーには謎が多いまた不明の期間が長い。その不明の個所はウィーンに出てきてからの5年3ヶ月に及ぶ期間である。彼は友人のクビツェクがウィーンに出てくるとき、中心駅である西駅まで出迎えている。

クビツェクの書いた『アドルフ・ヒトラーの青春』によると「アドルフは申し分のない都会人らしい出で立ちで現れた。上等の黒いオーバーを着、黒い帽子をかぶり、…」

ヒトラーは恐るべき真剣さで出迎えたのだ。

ヒトラーは『わが闘争』のなかでウィーン時代を通じて極貧の生活を送ったと書いているが、これは嘘である可能性が高いという。父母や叔母からの遺産が手に入っていたからである。友人アウグスト・クビツェクはヒトラーが移動するとき、彼のトランクは4つもあったと証言している。

ヒトラーの書くものには嘘がおおいという説があり、真実と嘘との境が限りなく見えにくい。彼は絶え間なく嘘をつくが、彼にとってそれが嘘であるという自覚はなかったのであろうと著者は述べている。

 

目標の学校に不合格となった彼は日々の時間をどのように過ごしていたのだろうか。毎日のようにシェーンブルン宮殿の庭を散策していたというクビツェクの証言がある。

フランツ・ヨーゼフ皇帝が執務室でハプスブルク帝国の行く末を案じていたちょうどそのとき、同じ宮殿のベンチで若きヒトラーは帝国打倒の夢を描いていたのかも知れない。

ヒトラーは造形美術アカデミーを呪い、ウィーンを呪い、世界を呪って、まさに絶望の淵にいた。クビツェクが音楽院に合格してからは苛立ちが募ったという。

そして9ヶ月後に浮浪者収容所に世話になり、ほとんど路上生活者状態であったという。

この期間にヒトラーの基礎が積み上げられていった。そして第一次大戦に参戦した。これを生き延びて帰国したとき彼が偶然であるかのように掴んだものは演説家としての生きがいであった。

著者の文体は次のようなものである。まるで偶然でもあるかのように、ヒトラーが閑散とした演説会場に立ち演説を始める姿が想像される。底知れぬ不満感と未来からの呼びかけが交差している場面である。

 

「ある日、腹をすかせくたびれた軍服を身にまとってすべてに唾を吐きかけたい気持ちで街を歩いていたヒトラーは、いかにも貧寒な演説会場にたどり着く。それはドイツ労働者党(将来のナチス)の演説会場だった。演説にもその日配布されたパンフレットにも、彼はそれほどの興味を覚えなかった。だが、宿舎に帰り、ふっとパンフレットを手にとって読み進むうちに、彼は自分の思想、いや現実への底知れぬ不満との驚くほどの一致を認めた。われわれはそこに口を開けている「偶然」に言いしれない不条理を覚える。彼がそのときパンフレットを手にしなかったら、ホロコーストに到るあのすべての恐るべき事柄はなかったであろう、という気持ちを抑えることはできない。しかし、ヒトラーはパンフレットを手に取ったのである。

そして、翌日、たちまちドイツ労働者党の演説会場において演説家として頭角を現すようになる。運命が初めて彼に目配せをした。それを、彼はしっかりとつかんだのだ。彼は無我夢中で演説した。気がつくと、群衆は目を輝かせ涙を溜めている。終えると割れんばかりの拍手。よって、自分の語っていることは真理なのである!

彼は成功に酔いしれた。自分を救うために、ドイツを救うために(この二つは奇妙に重なり合っている)、ヒトラーは自分の過激な反ユダヤ主義的プロパガンダが大衆から熱狂的な支持を得ることを体感的に知った。自分が過激になればなるほど、大衆が感動することを学んだ。そして、大衆のますます加熱する反応によって、ますますその「正しさ」を確信していった。綿密で冷静な計算によって大衆を一方的に操作していたのではない。彼もまた大衆に操作されていたのだ。彼の反ユダヤ主義は大衆との共謀構造の成果なのであり、大衆との共同作品なのである。」

 

人の心をつかむ能力は天才的である。師と仰ぐ人物はいたのか。絶大な人気があったカール・ルエガー(当時のウィーン市長)を自分の「精神の父」「理想我」と見ていたと思われる。「まれにみる人間通」「賢い戦術家」をヒトラーはルエガーから学んだようだ。

 

19363月ヒトラー率いるナチス・ドイツはオーストリア併合を実現する。ヒトラーはウィーンに凱旋将軍のようにして戻ってきたのである。この街、若き日の彼が味わった悲惨と挫折を堪え忍んだ街、この街で沿道の群衆は英雄の姿を見ようと殺到したという。

画家になる夢を徹底的に打ち砕かれたウィーンが、いま彼の足元にひれ伏している。25年後にこの地にドイツの国家元首として登場するとは夢にも思わなかったに違いない。

(2013.08.12  ) 森本正昭 記