「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 128
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芳地隆之『満州の情報基地 ハルビン学院』
            新潮社、2010

 

 

 

 

 

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ハルビン学院は1920年(大正9年)国際都市ハルビンに設立された。その使命は「北方に挺身する国士の養成」となっているが、ソ連の脅威に対応できる人材の養成が目的であった。外国からは「対ソ諜報員の養成機関」とみられていた。

当初は日露協会学校、後に満州国立大学となっている。

この学院は25年で終焉するが、卒業生は1412人におよぶ。卒業生および当時の在校生は激動する歴史に翻弄された人生を送ることになった。

就職先は、ハルビン郵政管理局、ハルビン特務機関、満鉄などであった。ハルビン郵政管理局での仕事は、外国新聞の検閲作業である。たとえば「東京の中心部に大空襲」、「米軍が沖縄に上陸」などという記事が掲載されていたとすると、その新聞を廃棄するのが仕事である。

 

この本の中には、忌まわしい歴史的事件が数多く描かれている。張作霖爆殺事件、満州事変、2・26事件や東京大空襲、ソ連軍の侵攻、戦後の中国内戦まで書かれている。それらは主役のハルビン学院を位置づけるためであろう。あまりに多くのできごとが描かれているので、読者は視点を失いがちになる。

やがて敗戦となる。敗戦後には対処しなくてはならない事態が次々と起こった。昭和20年8月21日ハルビン学院は25年の歴史に幕を閉じた。裏庭で校旗が燃やされた。学生たちはロシア語の辞書や著書論文などを炎の中に投げ込んで焚書を続けた。各地の警備に当たっていた学生の武装解除をした。その後、渋谷学院長、白井学監が自決すると、介錯まで学生たちがおこなった。

「後始末を行なったのは、20歳にも満たない青年たちである。敗戦の時どうするかなど、一度も教わっていない。敗戦のショックに打ちひしがれている暇はない。対処しなくてはならないことが次々に起こるからだ。」

ソ連兵乱入、日本人連行、「多くの日本人がシベリアや中央アジアに移送された。貨車に乗せられて、てっきり帰国できるかと思って喜んだら、列車は東ではなく、西に向かっており、日本海だと思ったところが、西シベリアのバイカル湖だった」という話もある。

 

数多くの卒業生を描いているが、なかでも26期生の島津朝美、15期生の杉目昇が頻繁に登場する。おそらく手記が得られたからであろう。杉目昇がホロンバイルで綴った回想録、島津朝美の体験談が滅法面白かったと著者自身が述べている。杉目は徴兵で帰国し日本国内の部隊に属していたが、敗戦を知るとすぐさま満州に戻ろうとした。しかし実現できなかった。それで在外同胞援護会から資金援助を受け「大陸引揚者援護会」を立ち上げ大陸に潜入する。危機をのりこえ満州奥地からの引揚者の帰国に尽力したという。島津はハルビンの繁華街で働いた。その後、朝鮮義勇軍に属したり東北人民政府軍に留用されたりした。国民党軍との対立の狭間に立たされることになった。

杉原千畝は日露協会学校の1期生であった。リトアニアの首都カウナス日本総領事代理で6000人のユダヤ人を救ったことで知られている。杉原千畝はその後どうなったかが詳しく紹介されている。

 

戦争末期になると、学院の在校生たちは軍隊の一部に組み入れられていき、国境地帯を守備する役割まで担っていた。南方方面が戦局悪化のため、関東軍の精鋭部隊の25万人が南方戦線に移送されていった。その空白地帯を守るため、兵隊としてソ連軍戦車に爆弾を抱えて飛び込んでいった学生もあった。そこまでする必要はなかったに違いないのだが、純真な青年たちは最悪の状況に追い込まれていったのだった。

これら青年の死を無駄にしない時代が到来するのであろうか。上海に東亜同文書院、サイゴンに南洋学院があった。ハルビン学院と類似した学校である。これらが真に母国に役立つためには、まだまだ時間が必要であった。軍事や国境問題がなく、貿易や文化という面に的を絞ることによって、当初の狙いが達成できる時代の到来が期待される。

「通商や外交は相手の立場に立って考える行為である。その上で相手の利益とこちらの利益を天秤にかけ、ときにタフな交渉を展開しなければならない。ハルビン学院からそんなプレーヤーが排出されたのは、同校が消滅した後だった。」と著者は語っている。「同学院の理念は同校が消滅した戦後の日本で生かされたのではないか」と環日本海経済研究所の名誉理事長吉田進氏は述べている。

(2011.06.24) (2017.04.24) 森本正昭 記