「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 120
                                 Part1に戻る    Part2に戻る

山口由美『消えた宿泊名簿』
                新潮社
、2009

   ホテルが語る戦争の記憶

 

 

 

 

 

戻る

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

戻る

 

まるでミステリー作品のような題名である。著者は箱根・富士屋ホテルの経営者の孫娘で、ホテルで生まれ育った境遇にあった。それで「ホテルと戦争」をキーワードにしてこの本を書くことを思いつく。誰も気づかない切り口なので、新鮮である。なにか日本の近代史に新しい発見があるのかと期待を抱きながら読むことができる。

 

冒頭から、ドキドキするような逸話が飛び出してくる。太平洋戦争開戦の前夜ともいうべき1941年(昭和16年)の夏、祖父(山口正造)はホテルマンの使命として、絶対機密を守られなければならない事態にあった(祖父の兄、日光・金谷ホテルの経営者金谷真一の手記より)。

箱根・富士屋ホテルにルーズベルト大統領の密使が宣教師の姿で潜入している。同時に同ホテルの別荘には近衛文麿首相が滞在している。日米の秘密会談が行われるらしい。絶対に軍部に知られてはならないと金谷真一は弟の富士屋ホテル経営者(山口正造)から知らされる。これは後に「二神父工作」とよばれている日米交渉の一情況である。しかしこのことは史実として記録されているわけではない。

著者はこの謎をホテルのレジスターブック(宿泊名簿)から明らかにしようとする。老舗のホテルとしてはレジスターブックは貴重品中の貴重品なので「非常持ち出し」になっているにもかかわらず、1940年と1941年(昭和15年と昭和16年)のレジスターブックだけがなぜか消えているのだった。  

この時期、このホテルで何があったのか。誰が宿泊していたのだろうか。

さらに1941年、1015日、スパイの嫌疑で尾崎秀実検挙、1018日リヒャルト・ゾルゲがソ連の国際スパイとして逮捕された。この事件では、近衛のブレーンであった西園寺公一が逮捕され有罪となっている。その根拠は8月末、富士屋ホテルでまとめた巨頭会談のための「対米申入書」の機密が漏れたのではないか。内容を尾崎秀実に知らせたのがよくなかったと自身で語っている(西園寺公一回顧録)。

如何なることがあっても、冷静さを保っていなければならないホテルの経営者(山口正造)もこの時ばかりは、命の危険を感じるような緊迫した情況にあったはずである。

開戦阻止のための「日米諒解案」に近衛首相ほか関係者、陸軍省軍務局長、武藤章なども賛同していたようだが、松岡外相の猛反対にあい反故にされ、日本は戦争という選択肢を選んでしまうのである。

箱根の富士屋ホテルの別荘、午六山荘で近衛は井川忠雄、松本重治、牛場友彦、西園寺公一らを集めて会合が行われた。『井川忠雄 日米交渉の資料』

この開戦の年の夏、日米はもっとも接近したという見方がある中で、日米諒解案が反故になったことはまことに残念ではある。

近衛はルーズベルトに宛ててメッセージを送っている。しかしどことなく煮え切らないところがあったという。その理由は謎である。

著者は「歴史とは、勝者の歴史であると、よく言われる。敗者の歴史は、正史からは無視されて、歴史とは見なされない。開戦阻止工作はなきものとされたのだ」と書いている。

 

二神父とはアメリカ、メリノール会という宣教会の司教と神父、ウォルシュとドラウトで、194011月、二人は横浜着。約1ヶ月関係者を訪問しているがそのまま帰国。2回目は1941年の824日、ウォルシュだけが箱根に到着、92日まで滞在した。ドラウトはアメリカにいて返信を待っていた。

日本側で主人公として奔走したのは井川忠雄(産業組合中央金庫理事)と岩畔豪雄(陸軍省軍事課の大佐で局長は武藤章、のちに東条によって近衛歩兵第5連隊長に転出させられている)であった。

ここで国の命運をかけた問題が話し合われていたにもかかわらず、彼らの足取りを示すレジスターブックは存在してはならないものになっていた。

 

ここまで読んだところで私は著者は何歳くらいの人かが気になった。

「太平洋戦争の最中、箱根に空襲はないという噂が、まことしやかに囁かれていた。」

「地域全体がインターナショナルゾーンだったのである。」

 ……などと書いてあるので、この著者は空襲を体験した年代の人と想像できる。しかし著者紹介欄に、”1962年(昭和37年)生まれ”と書いてあるので、何々と思い、こういう文章の書き方をする人なのだとやや失望もした。

 

ところで、このホテルでは、毎年クリスマスに記念写真を撮ることが恒例になっていた。

日本人客が増えるに従って、新年を記念して元日に撮影されるようになる。

「大東亜戦、第4周年ノ春ヲ迎エテ,富士屋ホテル 昭和20年1月1日」というコメントのついた写真を見て、著者は「ホテルと戦争」のキーワードを思いついたという。

「平和な時代には、毎年同じような顔ぶれが、衣装だけ新しくして並んでいた。顔ぶれがまったく変わったのは富士屋ホテルの長い歴史の中でもこの時だけだった。」という。

1945年は枢軸国の外交官の疎開家族だけ、枢軸国のうち箱根・富士屋ホテルにはイタリー、タイ、フィリピン、中華民国などの外交官の家族が疎開していた。

写真には「穏やかで柔らかな微笑が、多くの人々の顔にあった。そこに戦争があったとは思えない。」と書かれている。1946年の写真はGHQの将校たちで占められている。戦争の結末によって顔ぶれが一新する。

 

戦後は進駐軍の接収ホテルとしての役割を果たすことになる。「接収ホテルというものが、いかに周囲とは隔絶された別世界であり、特別な生活であったか」についてくわしく書かれていて興味深いがこれ以上は触れない。

(2010.09.10)    森本正昭 記