「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 151
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スーザン・セリグソン著、市川恵里訳 一ノ瀬俊也『皇軍兵士の日常生活』 藤田昌雄『日本陸軍兵営の食事』
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軍隊と食料の問題を調べてみようと思っているとき、この本に巡り会った。 『米軍のパン計画―マサチューセッツ州ネイティック』という章では、軍隊に適したパンの開発ができあがったことが紹介されている。 「パンは軍の最大の味方、兵隊は食べた分しか進めない」ということわざがロシアにはあるそうだが、アメリカでも同様で、研究の結果、新鮮なパンを支給すると兵士の士気が著しく高まることが明らかになった。 リネア・ホールバーグという女性が開発したパンはたいへんな優れものである。軍隊ではどのような環境でも、調理済みの状態で長期保存が利き、おいしくいただけることが必要である。さらに宇宙食としては粉々にならないという条件も必要である。空中に浮遊することは危険を伴うからである。 ホールバーグの開発したパンは特筆に値する。軍の野戦用「調理済み」糧食に初めて登録された。史上初である。長期保存が利く。このパンを食べる兵士は感情面ではるかに順調なことが明らかになった。パンは軍にとって意識高揚の役割を果たしたという。 日本の軍隊の食料事情はこれと比較できるような本に出会わなかったので、旧陸軍での食料事情を紹介することにした。文献は以下の書による。 一ノ瀬俊也『皇軍兵士の日常生活』講談社現代新書、2009 藤田昌雄『日本陸軍兵営の食事』光人社、2009 明治初期の陸軍給養表によると1日あたりの主食は精米6合、賄料6銭(下士官6銭6厘)と決まっていた。その後、給与令はしばしば変更になるのだが、1日あたり6合という基準はほぼ守られている。賄料は身分、地域、仕事の内容によって細かい差があった。 一日6合という大量の米飯を食べられることで満足していた兵士も多く、それが軍隊に対するある種の好印象をもたらす一因になっていた。 やがて統制経済の時代にはいると、軍隊とて食料を確保することが厳しくなっていった。 「昭和17年内地兵営の食料事情」によると、「東部軍では一日平均3500キロカロリー分を食べさせるべきところ、実際の平均は3350キロカロリーしかなかった。節米のためうどん500グラム、パン300グラムを支給しているが、米にくらべてカロリーが少ないので一日2800キロカロリーの日もあった。副食では脂肪分が少ないことや、汁物が多く、熱量が少ないのですぐに空腹となった。 闇取引が公然とおこなわれているのに、軍の賄い費は微増なので、一人一日肉50グラム、魚肉150グラム、野菜500グラムを確保することは難しかった。 分配法に不公平があった。一律公平な分配はかえって不公平になりかねず、本来食べたい者が食べるべきご飯が残飯となってしまう。初年兵は古年兵に遠慮して食べずそのまま残った。階級制と個人的感情の対立という、当時の軍隊が抱えていた矛盾が顕れている。 食料が足りないはずなのに、なぜかかなりの残飯が出る。みじめな初年兵は残飯を捨てに行って、その残飯を手づかみで食べたりしたようだ。 パン食も週1回は給食されていた。時局パンと興亜建国パンがあった。時局パンは発酵パン(食パン)に雑穀を混入して栄養価を高めていた。黒パン、大豆パン、玉葱パン、馬鈴薯パンなどがあった。興亜建国パンは節米の立場から、野菜と砂糖が混入されている高栄養のパンであった。 戦闘のため外地に出た兵士にとって、「食」は「戦力」に直結する問題であった。日本軍は大量の食料を必要な場所に輸送する兵站力が劣っていた。そのため日中戦争以降アジアの各地で「挑発」と称する事実上の食料掠奪が多発し、原住民に被害をもたらした。 戦争末期の南方の孤島では、補給が途切れると守備隊の将兵は餓死にまで追い込まれた。 中部太平洋のパラオ本島の守備隊兵士たちに与えられた兵食の献立の例は 朝 乾パン76.6グラム 昼 精米78.3グラム、乾パン31.8グラム、みそ汁(南瓜72グラム、魚72グラム、甘根51グラム) 夕 精米71グラム、甘藷110グラム これで総熱量は1103キロカロリーと、兵士一人に必要なカロリーの3分の1程度しか摂取できていなかった。生存率は階級の低い兵ほど低く、食をめぐる不公平が著しかったという。末期の日本軍において、将校と兵の離間があちこちで発生した原因でもある。 (2013.11.01) 森本正昭 記 |