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山室建徳『軍神』―近代日本が生んだ「英雄」たちの軌跡
       中公新書19042007

 

 

 

 

 

 

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この本を読んでいる最中、ズーっと「小学唱歌」や「うたのほん」で歌った『広瀬中佐』や『へいたいさん』それに軍歌がどことなく聞こえてきて、口ずさむことになった。

    轟く砲音 飛来る弾丸/荒波洗う デッキの上に/闇を貫く 中佐の叫び/「杉野は何処、杉野は居ずや」

特に「杉野は何処、杉野は居ずや」のフレーズは少年の頃、よく歌ったものだ。

あの頃は社会に熱気が溢れていて清らかな活気があった。その頃を思い出すことを私は嫌いではない。

しかしもはや「軍神」って何?と若い人には怪訝な顔をされるに違いない。

戦死者はみな靖国神社に祀られるのだから、その全員が軍神であるともいえる。そのなかで特に軍神といわれる軍人がいたのはなぜか。選ばれる基準があったのだろうか。

 本書はおびただしい史料を集めることによって、軍神像を描き出している。

 

 その上で軍神を3類型に分けている。

1 広瀬武夫、橘周太、加藤建夫  部下を思いやりながら戦場で倒れた中年の指揮官

2 乃木希典、東郷平八郎  大決戦を勝利に導いて、英雄となった将軍・提督

3 爆弾三勇士、真珠湾攻撃の特別攻撃隊 死を免れない作戦を集団で遂行した若手将校

 

「指揮官か若き兵卒か、個人か集団か、思いがけない死か作戦成功のための覚悟の戦死か」、などという分類もあるかも知れない。

 

国難の時代、人々は感動に値する人物を求め、英雄の登場を無意識のうちに求めている。その対象は時代背景によって変化するが、上からの指示ではなく、「日本人の一体感の中から、自然に生み出されてきたといってよい。」

だから軍神は戦争を勝利に導いた立役者であるとか、著しい戦果を挙げた戦士から選ばれるわけではない。

「広瀬や橘は、愛すべき人柄を持つ模範的な指揮官として知られていた。決死の作戦に参加する中で、部下に愛情をかけることを忘れず、皇室に尊崇の念を持ちながら戦死したという物語に、当時の日本人は深く感動して、涙した。そこから軍神が生み出されたのである。」

明治期の戦争で、軍人は敵味方の 互いが敵対しあうだけでなく、いくさ自体を超えようとする高い志を持っていた。「軍神」として賞賛するに値する人物――広瀬については敵方も彼を追悼する気持ちを持ったに違いない。日本もロシア海軍の名将マカロフの死を称えている。サムライ魂を持っていたと思う。

 

乃木大将の場合、自決といっても、殉死であった。「主君に殉じて死ぬなどとは遠い昔のできごとで、まさかそんなことが文明開化の世に起きるとは誰も思っていなかった。」だから乃木の自決を聞いて誰もが驚愕した。しかも夫妻ともであった。「乃木の自決を道義的にどう受け止めるかについては、さまざまな意見があった。武士道の精華として称える者がいる一方で、自殺自体には否定的な者もいた。」

 

日本側が一番気にしていたのは欧米諸国の目であった。西欧近代文明の導入期にある日本人は、「欧米から殉死は野蛮だと糾弾されるのを内心恐れていたが、そうではなかった。日本が急速な近代化を遂げられたのは、乃木が体現したような日本独自の精神が支えとなったことを、外国の大新聞は意外にも理解してくれた。」

 

乃木は旅順の戦いで二子を失っている。人びとはその生涯に深い共感を抱いたのではなかろうか。明治天皇の跡を追って自らの生涯を終えたところに、大きな社会的反響を呼び起こした。日本人は見失っていた独自性を再発見したと言ってもよい。

さらに夫に殉じた夫人の壮烈な死は、当時の女性に深い感銘を与えた。葬儀に列席した人の内、女性の人数の方が多かったという。

夫妻の葬儀は満都の人を動かした。青山近辺は群衆であふれかえったという。

 

 著者は広瀬、乃木に泣いた明治の日本人と、爆弾三勇士、真珠湾の九軍神に感激した昭和の日本人には明らかに意識の差があると指摘している。

山本元帥の戦死、山崎軍神部隊玉砕の報道に、日本人は意気消沈した。三勇士や九軍神が特攻作戦のための前ぶれであったことに気がつくのだが、日本は敗戦への足跡を早めていった。

 

いまでは、軍神は死語となっている。敗戦のつらい記憶は彼らを遠い過去の存在に追いやってしまった。乃木神社も東郷神社も空襲で焼けた。広瀬神社は戦後の一時期、いかれた米軍兵士や高校生の遊び場と化してしまったというのは、あまりにも痛ましい。

 

この国に命をかけて戦った英雄が、時代が変わったとはいえ、まったく世の中から忘れ去られてしまってよいものだろうか。

(2010.02.21)  森本正昭 記