「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 154
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きむら けん『鉛筆部隊と特攻隊』
    もうひとつの戦史、
             彩流社、
2012

 

 

 

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東京・下北沢駅の近くで古本屋を営んでいた主人(歌人でもある)は店の前を多くの足音が通っていくのを耳にする。灯火管制で真っ暗になった中を黙々と駅に急ぐ子どもの列がそこにあった。著者はそれが昭和19年8月12日の夜10時頃であり、代沢国民学校の疎開児童であったことを後に割り出している。

この本の冒頭に書かれているこの個所は痛く読者の心に突き刺さる。私も国民学校の学童であった過去の記憶がよみがえった。

父母の見送りは校庭までと決められていたのに、子の最後を見届けようと、親は駅までついていった。列車が駅を出て行くとき、親は子どもの名前を「火の出るような声」で口々に叫んだという。

約60年も後になって著者はネットのブログに、「長野県東筑摩郡広丘村に学童集団疎開し、疎開先のお寺で生活した児童たちが歌っていた唱歌をご存じの方がいらっしゃったら、教えてください」というメールを受け取る。この作詞をした先生は作文教育に熱意のある柳内達雄先生であった。学童たちは心の内を綴っていたのだが、その生徒たちのことを「鉛筆部隊」と呼んでいたのである。学童たちは毎日の生活を切々と鉛筆で綴っていたに違いない。

ここまでの記述は第1章「鉛筆部隊」の冒頭の部分である。著者・きむら氏の文章構成や表現の巧さに感嘆する。

疎開先信州松本に意外なことが起こった。満州の新京から6人の若き特攻兵が飛来するのであった。陸軍松本飛行場で飛行機の装備を特攻機用に爆装するためであった。

満州から飛来した若き特攻兵と東京からの疎開児童とのふれあいがあった事実を著者は徹底的にその跡を追っていく。

異質なもの同士が信州松本で出会ったというのだが、信じがたい夢物語と言ってもよいのだが夢などではない。極めて稀な史実なのである。

今にして思えば、両者はどちらも当時の悲劇を背負っている。異常な時代の被害者同士であった。

 

問題はそれだけでは終わらない。この事実がしだいに明るみに出て来たのは、戦後60年も後のことで、きむら氏の努力もさることながら、インターネットのよさが縦横に活かされた結果でもある。

もはや埋もれてしまって消滅しそうになっていたエピソードが偶然を呼び、当時の体験を蘇らせた。その偶然がまた次なる偶然に結びついていった。その結果が「もう一つの戦史」を産みだしたと言えよう。

著者は「北沢川文化遺産保存の会」で多様な活動をしている。「戦争経験を聴く会、語る会」も主催している。ネット上でブログを提供することが機縁となっており、多くの人を結びつけた。元鉛筆部隊の人々に会う。資料や写真が集まってくる中で、その唱歌を歌ったことのある元学童や資料としての歌詞や楽譜も集まってきた。

『広丘はぼくらの里 青い空光る汗 』で始まる広丘村郷福寺寮歌は作詞者柳内先生、作曲者浜舘先生で4番まであることが分かった。

 

満州からきた特攻兵には武剋隊と武揚隊とがあったが、代沢国民学校の学童たちと交流があったのは武剋隊の方で、浅間温泉千代の湯に同宿することになった。自然に兄と弟妹のように慣れ親しんでいった。隊長は「情が移るから疎開児童の女児とあまり深くつきあうな」と忠告したほどである。

『帰ってきたらお嫁さんになってね』といわれた者もいた。自分の分まで生きて欲しいと形見を託された者もいた。敵艦に体当たりして死んだ兵士は神様になると教えられていた。戦後になっても忘れることはできない体験である。

 やがて飛行機の爆装が完了すると、隊員たちは他の特攻基地に出撃していくことになった。特攻隊として出撃したのはその直後だった。特攻隊の戦果とともに隊員たちの名前がラジオ放送で読み上げられた。軍国少年は歓声を上げ、皇国少女は泣いた。

もう一つの武揚隊との交流についても、仔細が次々と明らかになっていった。

著者・きむら氏は子どものための感動ノンフィクション賞の募集にチャレンジするのだが(優良賞受賞)、そのためゆかりの地を訪問している。人の噂話だけでは満足できず、必ずウラを取ることを実践している。そうするとまた新たな出会いが待っているという具合である。

広丘村の郷福寺、整地に協力した飛行場、浅間温泉、松本高女の卒業式に特攻機で上空を飛行したことなどである。

 

「信州松本での武剋隊と武揚隊の兵士たちと学童たちとの熱いふれ合いは、戦争史の影に隠れた真実である。記録しておく必要がある。これは大人にこそ伝えるべきものだ。新たな闘志が湧いてきた。大人向けに書き改めて記録に残そうと思った。」と著者は述べている。

(2014.01.16)   森本正昭 記