「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 119
                        Part1に戻る    Part2に戻る

池谷 薫『蟻の兵隊』
日本兵2600人山西省残留の真相、  新潮社、
2007















戻る

この夏(2010年)、浅田次郎『終わらざる夏』が話題になっている。1945815日の敗戦の3日後に、千島列島占守島にソ連軍が突如攻め込んできた。日ソは不可侵条約を結んでいたにも拘わらずである。この島には日本軍の守備隊精鋭がいたのだが、戦争が終わった後に新たな戦争が始まったのだった。

一方この本『蟻の兵隊』のテーマである中国・山西省残留部隊の戦争も戦争終結後に起こっているが、これは中国の内戦に国民政府軍の傭兵としての参加であると思われていた。

ところがこの本を読むと、そうではなく残留の目的は祖国日本の復興のため、日本軍の兵隊として戦っていることが分かる。目を覆う理不尽な戦いが、戦後、中国北方の奥地で行われていた。

支那派遣軍の首脳部は山西残留を実現することは、祖国復興のためという「大義」と軍主力および居留民の帰国を促進させ、戦犯を救うという「名分」を兼ね備えていたという。

 

ポツダム宣言を受諾した日本は連合国に対して無条件降伏した。これによって帰国することは国際法上の義務であった。それにもかかわらず、北支那派遣軍では残留か帰国かが大きな問題となって、帰国したい強い希望をもった将兵に襲いかかった。この本の記述どおりとすると、軍首脳部が山西残留を兵隊に押しつけてきたのだ。

まるで特攻を志願するかどうかを問う質問と同じであった。それで一時は帰国派と残留派に別れ、血の雨が降らんばかりになったという。大義名分だけでなく、おれも残るからキサマも残れと、親分子分的人情でひきとめるやり方も行われた。上官にほだされる者、脅迫された者もいた。

表紙カバーの写真が残留した兵隊の集合写真なのだろうか。険しい表情をしているように見える。

 

残留依頼は、山西軍の司令官・えん錫山から、留まって中共軍と戦ってほしいとの要請があった。えん錫山は第一軍司令部に対して「一万人の将兵を残留させなければ、日本軍民の内地帰還は許さない。」と通告してきた。

 

しかし支那派遣軍の岡村寧次総司令官ら首脳部は「中国の統一は蒋介石の国民党によって行われるべきもので、毛沢東の共産党であってはならない」と考えていた。

さらには司令官・澄田らい四郎中将、参謀長・山岡道武少将らの首脳部の意志が裏に働いている。あの河本大作も関係していたらしい。

兵士たちの噂話では、軍上層部の幹部自身が戦犯に問われるのを怖れ、連合軍の進駐している日本へ帰国することをためらうあまり、えん錫山に取り入って残留を画策したというのだ。

澄田司令官は、昭和20728日、重慶に設置された連合国戦争犯罪委員会によって戦犯に指名されていた。この人物からは、読むに絶えない卑劣な人間像が浮かんでくる。困難にぶつかったとき、その人の人格が浮かび上がってくる。澄田は進駐軍のいる日本への帰還をためらい、山西に軍まるごと、留まろうとしたのではないか。

東條英機元首相との確執もあったらしい。

 

しかし、著者はさらに穿った見方をしている。「山西残留という国際法上の違反行為は、単に第一軍首脳の戦犯逃れといったレベルを超え、大本営や日本政府、占領国アメリカが「反共」の旗印のもと、容認した行為だったのでは」と指摘している。さらに「日本軍の一部を大陸に残置すべし」という元大本営参謀・朝枝繁春が支那派遣軍総軍ほかに命令を示達したという噂もある(作家・保阪正康)。おとなしく武装解除し降伏した者ばかりとは思えない。

 

「残留日本軍部隊は「天皇の軍隊」という禁断の御旗を掲げ、絶望的な戦闘に突き進んでいった。」「日本兵は日本兵であることだけを誇りに戦った。」

 

その結果は、北支派遣第一軍から2600人残留のうち、死亡550名、700名捕虜、抑留生活3年8ヶ月という悲惨な結末に終わっている。

 

やっとの思いで帰国した残留組の将兵を待っていたのは祖国の冷たい仕打ちであった。

まず日本の軍籍を剥奪されていた。

「中共帰り」はアカと公安にマークされ、就職すらかなわなかった。

厚生省は「逃亡兵として現地除隊」「除隊後の戦傷は公傷ではない。」「戦死ではなく、平病死(公務以外の事由で死亡)」とみした。

澄田や山岡はどう対応したかというと、「貴方たちは自分の希望で残ったのだから私には関係ない」という態度をとった。澄田は帰国するとき「私は日本に帰って援軍を募って必ず中国に戻ってくるから、それまでどうか頑張ってもらいたい。」とうそぶいていた。澄田、山岡は残留兵をそのままにして、単独帰国を果たしている。

 

残留兵たちが軍人恩給の支給を求めて国を提訴した裁判では現地除隊の処分不当を認めさせることはかなわなかった。原告側全面敗訴であった。東京高裁での控訴審でも敗訴、最高裁は上告を棄却している。「シベリアに抑留された将兵が帰国する日まで軍籍を認められたのに対して、山西省に残留した彼らは、内戦に巻き込まれて戦闘に明け暮れた期間も捕虜になって抑留された期間も国の保証の対象にならなかった。」

蟻の兵隊の行進はいまも続いているのだ。

(2010.08.30)  森本正昭 記