「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 134
                         Part1に戻る    Part2に戻る

アミン・マアルーフ
『アラブが見た十字軍』
牟田口義郎・新川雅子訳

   リブロポート、1986

 

 

 

戻る

『訳者あとがき』に牟田口義郎氏は、近世以降の中東は帝国主義の狩猟場のように扱われてきた。中東を勉強するとき、西洋の帝国主義史観を世界史観と思ってはならないと述べている。搾取される側の視角から中東史を見直すため、この翻訳に取り組まれたと思われる。

戦争は支配する側の論理で歴史が作られてしまう。

十字軍については高校の世界史教科書でも、「西欧のキリスト教国が聖地エルサレムを異教徒から奪還するために遠征軍を派遣した」という正義の戦いという説明だったと記憶している。

マアルーフのこの本はタイトルどおり、アラブ側から見た十字軍が描かれている。この立場の本を見ることは稀少なので、価値がある。

本文には「十字軍」という用語は見当たらない。代わりにアラブの史書には、当時の西洋人の代名詞であったフランク、侵略者、不信心者、蛮族、人食い人種などがある。ここではフランクとの戦争、またはフランクの侵略が多く使われている。

 

ここに始まる最初の一撃。

「フランクが40日間の攻囲の果てに聖都エルサレムを奪ったのは、1099年7月15日のことであった。ムスリム(イスラム教徒)の祖国がこのように野蛮な侵略を受けたことはかつてなかった。剣で男女、子供ののどをかき斬り、家やモスクを荒らし回った。その虐殺が終わった後に、城壁内にムスリムの姿は一人もなかった」。

これが聖戦をうたう者の行為なのか。千年の対立がこの時から始まった。

なぜこのような残虐な争いがなされたのか。キリスト教国における聖戦だからである。異教徒を弾圧・排除するための戦争だからである。キリスト教の独善性や排他性のなせる技というべきか。

 

「さて今日、21世紀の前夜においてもアラブ世界の政治的・宗教的指導者は、相変わらず、サラディンやエルサレル陥落およびその奪回を引き合いに出す。イスラエルは、新たな十字軍国家とされてしまっている。

1956年のスエズ戦争についていえば、1191年のこと(英国王リチャードの介入によりフランクは勢力を回復)と対比し、これは英仏両国が起こした十字軍だと受けとめられている。」

 

 対立が長期に及び、また残虐であった理由は、排他性の強い聖戦であったことと、当時の文化的生活がアラブの方が上であったことではないだろうか。アラブ世界は知的および物質的にこの世でいちばん進んだ文明の担い手であった。さらに長期にわたる争いになったのは、アラブ側の反撃が緩慢であったことにも理由がある。

 

「「西」は「東」に学んだが」 という節に次のようなことが書かれている。

「十字軍時代を通じ、アラブは西洋から来る思想に心を開こうとはしなかった。このことこそ、彼らが犠牲者となった侵略のもっとも不幸な結果なのだ。侵略者にとって、征服した民の言葉を学ぶのは器用にこなせる。一方、征服された民にとって征服者の言葉を学ぶのは妥協であり、さらには裏切りでさえある。実際、フランクの多くはアラビア語を学んだが、これに対して現地の住民は、西洋人の言葉に無関心で通した。

フランクはどの分野でも、シリアやスペインおよびシチリアにあるアラブの学校で学んだ。そして学んだことは、彼らのその後の発展になくてはならぬものになる。ギリシャ文明の遺産は翻訳者にして後継者であるアラブを介して初めて西ヨーロッパに伝わった。医学、天文学、化学、地理学、数学、建築などにおいて、フランクはアラビア語の著書から知識を汲み取り、それらを同化し、模倣し、そして追い越した。その証拠としていまなおどれほど多くの単語が使われていることだろう。

産業の面においても、ヨーロッパ人は紙の作り方、皮のなめし方、紡績、アルコールや砂糖の蒸留法などにつき、まずアラブが用いていた方法を取り入れ、それから改良していった。ヨーロッパ農業もまた、中東との接触によって豊かになったことも忘れてはならない。アンズ、ナス、冬ネギ、オレンジ、スイカなどのヨーロッパ語はアラビア語源であり、まったく枚挙にいとまがないくらいである。」

 

「アラブは十字軍以前から、ある種の「疾患」に悩んでいた。9世紀以来、みずからの運命を制御できなくなっていた」。権力の保持者や軍隊の指導者たちはほとんど外人である。トルコ、アルメニア、クルドなどである」。  

またアラブの住民たちは過去の遺産で生きることに満足していた。凶暴なフランクやモンゴルの侵略者にたいしては戦うよりも逃亡を選んだ。そこから彼らの衰退が始まったのである。

 

最初の一撃から2世紀をへだてて、アラブ世界は輝かしい勝利を得るところまでいった。「ムスリムはみごとに立ち直って、オスマン・トルコの旗にもと、ヨーロッパそのものの征服に出かける。1453年にはコンスタンチノープルが彼らの手中に帰したし、1529年には、その騎兵たちはウイーンの城壁のもとに陣を張ったものだ」。

それでもなお、自国に安定した法制を敷くことができなかったことが第二の「疾患」であったと著者は指摘している。強固な国家基盤が確立されることはなかったのである。

やがて世界は西欧諸国に支配される中で、中東は帝国主義の狩猟場と化してしまうのである。

(2011.12.30)   森本正昭 記