「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 118
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佐野真一『甘粕正彦 乱心の曠野』
                新潮社、
2008

 

 

 

 

 

 

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甘粕と聞くと、人は無政府主義者・大杉栄一家殺害の主犯・甘粕大尉のことを想像する。冷酷非情で狂信的な天皇崇拝主義者だったとも聞く。

謎の多い人物で、何が真実なのか、多くの人はそれを知らない。追求しようとも思わない。

著者は「あとがき」に、「この小説には想像は一点も混入させていない。すべて取材で得た事実と信頼すべき歴史資料をもとに構成したノンフィクションである」とのべている。その通りで、読み応えのある歴史長編の労作になっている。

しかし、人は想像するからこそ、事実を確かめたくなるのである。

著者の冒頭の疑問はこうである。甘粕は大杉らに直接手を下していないのではないか。大杉が連行された麹町憲兵分隊の所在地は皇居に近く、「お堀をはさんで手を伸ばせば届きそうな距離にある。」「どこにいても皇居遙拝を欠かさなかった男が、皇居を血で汚したと言われても抗弁しようがない場所で、一家三人の惨殺をするとは考えにくい。」

そうして延々と著者の取材活動が始まる。それは真似することができないくらい徹底している。そうすることによって、別な事実を掴み、そこでまた新しい想像が湧く。

たとえば、大杉事件に連座した甘粕の部下の憲兵(平井利一、本多重雄、鴨志田安五郎)はその後どうなったかを追求していく。遺族に取材するだけでなく墓地にまで足を運んでいる。するとこれらの三人はみな事件後、満州の地に渡り、甘粕の紹介した仕事に就いている。しかし一様に若死にをしている事実がわかる。なぜという疑問と推理が読者にまで伝わってくる。

 

この本の流れは、甘粕家が戦国時代上杉謙信に仕えて川中島の合戦で武勲を挙げた甘粕近江守長重を始祖とした由緒ある家柄であること。このような武人の家柄に生まれた者が問題事件を起こすはずがないという煙幕が冒頭に張ってある。

次いで憲兵になった事情、大杉事件のいきさつが書かれている。その後、口封じのためかフランスに送り出されたこと、満州に現れてからの活躍などの経緯が時系列を追って書かれている。

章を重ねるに連れて、甘粕について好意的で人物評価を高めるようにでき上がっている。読者はその意図に引きこまれていく。

とくに注目されるのは、陸士の同期生の中で出世頭と目された澄田中将(北支派遣軍第一軍司令官)と比較している個所である。「澄田は敗戦を迎えても武装解除命令を出さず、国民党軍の閻錫山(エンシャクザン)と密約し、2600人の兵士を戦後3年半も共産党軍と戦わせ、おびただしい戦死者を出した。そして澄田本人は部下を戦場に棄民したまま、日本に帰国した。勲一等旭日大綬賞も受けている。

これに対して、甘粕は部下の満映全職員に退職金を渡したうえ、貨車の手配までして満州を脱出させ、自らは毒薬による自決をしている。」

どちらが本当に立派な日本人だったのかと著者は述べている。ここからは武人の鑑というべき人物像が浮かび上がってくる。部下にやさしい態度で接する場面は、他にいくつも紹介されているが、これ以上は触れない。

読者はこの様な記述に接すると、著者の意図に容易に巻き込まれてしまう。

 

ところで満州が存在したのは、昭和7年建国からわずかに13年間、五族共和と王道楽土を夢見た人工的帝国である。この帝国建国には、関東軍参謀らによる柳条湖の満鉄路線爆破という謀略に始まる。まさに乱心の曠野というにふさわしいやり方である。

いつしか甘粕は、「満州の昼は関東軍が支配し、満州の夜は甘粕が支配すると囁かれる」ほどに、闇の権力者になっていく。

登場する人物は謎めいた人物ばかりである。

甘粕は東條英機の私設秘書といわれ、陸士時代から特に目をかけられていた。

大川秀明と深い関係にあった。

河本大作は張作霖爆殺事件を主導した。

橋本欣五郎、軍部クーデターを計画した首謀者、は甘粕を盟友と呼んでいた。

高畠義彦はロシアの軍事情報をひそかに集める密偵の役目を果たしていた。

“阿片王”といわれた里見甫、追えば追うほど謎が深まる男だったが、甘粕の方が謎のスケールが大きいと著者は言う。

溥儀、岸信介、古海忠之、武藤富男ら満州国政府高官と太いパイプを維持していた。

 

 満州帝国が進展する中で、「満州建国当時の関東軍参謀たちが次々と満州を離れ、内地に召還された。片倉衷、石原完爾、板垣征四郎も満州から転出した。」甘粕ひとりが取り残されたという。

甘粕の趣味は謀略であるという個所がある。甘粕は満州建国の功労者、満州事変に連動したハルビン暴動を引き起こし、皇帝溥儀連行を成功させた。

しかし、いったん大杉事件で、軍首脳部のスケープゴードになってしまうと、密偵たちがうごめくこの謀略の大地で生きるには、謀略活動を実行する以外になかったのではないか。

 

若き日の愛読書は『アラビアのロレンス』で、彼はイスラム世界と満州を結びつけてアジア世界の大統合を実現する“大陸のロレンス”になることを夢見ていたらしいことも知った。

現実は満州事変を拡大させ、その後15年にわたる泥沼の日中戦争へ、さらには太平洋戦争へと謀略の影響はかげを引いていった。謀略で始まった負の歴史は決して収まることはなかったのだ。

 (2010.07.21)   森本正昭 記