「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 146
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小林弘忠
『私の戦後は終わらない』      
       紀伊国屋書店、
2005

遺されたB級戦犯妻の記録

 

 

 

 

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大戦の終結後、連合国の法律学者の協議によって罪として決められたのは

「平和に対する罪」これは戦争を遂行した指導者を罰する罪で、A級戦犯となる。

「通常の戦争犯罪」アジアを中心とする地域で、現地人や捕虜を迫害、虐待した実行者、それを黙認した部隊の責任者で、これはB級戦犯である。

「人道に反する罪」ユダヤ人大量虐殺のような人道に反する行為者はC級戦犯となる。

 

およそ勝者が戦争犯罪を裁くほど理不尽なことはない。勝者はまったく罪を問われることはないのだから。

先の戦争では、米国ほど人道に反する罪を犯した国はかつてなかったであろう。原爆投下や東京大空襲などの日本焦土化、病院船の撃沈など事例が多々ある。これらは非戦闘員に対して行われたもので、人道に反する不当な行為である。

この本に描き出されている戦争犯罪?とされているものは、これに比べると取るに足りないものである。上記の分類ではB級犯罪になるのかもしれないが、裁判は何ら証拠となる事実を追求していない。憤慨に堪えないものだ。

私はこの本を取り上げた時点で、重いものがのし掛かってくるのを感じていた。冬の夜、静かな環境でこの本をくわしく読んでいくと、主人公である本田タネと夫の本田始の心情が乗り移ってくる気がしてならなかった。

西原タネが本田始と結婚したのは戦時中の昭和17年の暮れであった。知り合ったのはタネが看護婦として勤めていた熊本陸軍病院の健軍分院であった。本田始は日中戦争に狩り出され、中支で重傷を負い、この病院に収容されてきた。右肩に砲弾の破片が食い込み粉骨していた。後に右手の自由が利かないことが重大な問題となるはずなのだが裁判官はそれさえも無視している。

結婚は本田の親が決めた養子縁組を退けて、始がタネとの結婚を望んだ。本田家は商店経営ということであったが、行ってみると小規模の雑貨屋であり売る品物はなく収入は期待できなかった。生活は本田の実家の狭い一室に暮らすことからはじまった。それは舅・姑と暮らすことであり、針で刺すような言葉を投げつけられる生活であった。

 

始は退院後2回目の召集を受けたが、入隊検査で不合格となった。しばらくして福岡俘虜収容所の監視員の仕事にありつけた。福岡俘虜収容所第一分所は熊本市健軍町にあった。任務は九州の各地に飛行場を建設するため捕虜を働かせる、その監視役という仕事である。

タネは夫がこの仕事をやっていけるのか心配だった。

「言葉の通じない捕虜を働かせるにはどうするたい」

「やれっといっても分からんときは、体に言い聞かすたい。右腕が湾曲していて使えないので、迫力なかよ」

 

しばらくして福岡市に転勤し、夫婦二人だけの生活がはじまった。これは生涯で一番幸せな時期であったようだ。

九州各地は敵機による被災がひどくなり、避難生活を送る。やがて仕事がなくなりふたたび義父母のいる熊本に帰郷することになる。熊本も戦災で街の様相が変わっていた。

そしてやがて敗戦。

 

戦後になって戦争犯罪人が追求されるのだが、呼び出しを受けたのは戦争指導者ばかりであった。GHQは戦争犯罪人として東条英機元首相ら39名を逮捕した、自決者が相次いだ。追求の手はB級戦犯にものびてきた。本田は自分はまさか関係あるまいと思っていたのだが。

 

マッカーサー最高司令官の指令状を持った警察官が本田商店にやって来た。

傷痍軍人でありながら、「お国のために働ける」と喜び勇んでいた小心な夫が人の道に反する犯罪人になろうとは信じられない。

日本側の告発者はわが身をかばうために、罪を他人になすりつける傾向にあった、虚言を弄する者もいた。捕虜たちからは日本人の顔の判別があまりつかなかったし、記憶違いもあった。終戦と同時に関係文書を処分してしまっているので、無実を証明できない。

検察官も弁護士もGHQが任命していた

勝った国が正義であり、敗戦国はその正義に従わなければならなかった。

 

BC級戦犯は多数なので短日時に判決が出た。タネは証人として横浜の裁判所に駆けつけるが、判決は予定日の前日に決していた。

それは絞首刑であった。

夫は死刑が宣告された後、取り乱すかと思ったのだが、意外にも冷静であった。

 

本田が入所してから楽しみなこともあった。文通である。妻へのいたわりと自責の念が満ちていた。この時期、このような文通が夫にも妻にも生きがいになっていたようである。

 

死刑執行を今日か明日かと待つ身なのに、淡々と過去を振り返っている。自分が考えていたより夫は豪胆な人であるのかもしれないと認識を新たにしたほどである。

 

タネは藁にもすがる気持ちで日本の統治者マッカーサーに嘆願書を書き送付したが効果はなかった。

死刑執行に到る経緯やその後のできごとについては、ここには書きとどめないこととする。原文を読んでいただきたい。

教誨師の僧侶花山信勝から法名、爪と髪の遺品が送られてきた。遺骨の引き渡しはない。

 

本田の家と離縁することになる。看護婦として再就職に奔走する。難航したが、かつて勤めていた健軍病院にゆかりの国立病院に採用されることになった。そのいきさつは不思議な縁のつながりがあり、天の恵みともいうべきであった。旧同僚の小川光子との偶然の邂逅に感謝している。夫が見守ってくれていたのだと心の中で手を合わせた。

 

戦後の日本は少しずつ変化が見られるようになった。

*25年11月公職追放令が解除された。タネの追放令も廃止になり、晴れて堂々と病院勤務ができるようになった。

*法務総裁木村篤太郎が言明した見解、「処刑された戦争犯罪人は、通常の犯罪で死刑になったのではなく、国内法では犯罪者としては扱わない」 これは従来の考え方を180度変化させた新解釈であり、戦犯遺族にとっては朗報であった。

*29年処刑された人の家族のための遺族会(白菊遺族会)が結成された。熊本県にも支部ができ、鎮魂碑を建立した。

病院勤務の非番の時にはこの鎮魂碑と夫の墓参りをすることが楽しみになった。

*30年恩給法改正で戦争犯罪受刑者にも恩給が支払われるようになった。34年にはBC級戦犯も靖国神社に合祀されている。

 

戦後を生き抜いていくためには看護婦の資格を持っていることが大変役だったのだが、その看護婦の仕事を退職することを決意した。

夫の冤罪の疑いを調べる活動をするためである。監視員時代のことをもっと知りたいと思い、図書館通いを始めた。その結果に唖然とする。第一分所で死刑になったのは本田ただ一人だった。再審によって減刑になった者も多数いた。タネは疑義を感じ深いため息をつくのだった。

 

*教誨師の花山先生に会って死刑が執行される直前の姿を詳しく聞くことができた。

 

*昭和60年、戦後40周年を記念して熊本日々新聞社は『私の昭和』と題する体験記を募集した。

これに『B級戦犯の妻』という作品を応募したことはタネに大きな変化をもたらした。なんと一等当選の栄誉に輝いたのだ。60年1月1日の熊本日々新聞に全文が掲載された。タネを励ます電話や手紙がひっきりなしにかかりまた届けられた。これに勇気づけられた。

*自分史『B級戦犯の妻 ふたすじの道』が熊本日々新聞から発刊された。このときタネはもはや82才になっていた。

(2013.04.05)  森本正昭 記