「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 168
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品川正治  
『手記・反戦への道』
新日本出版社、2010










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品川正治氏は日本興亜損保社長・会長を経て経済同友会副代表幹事・専務理事などを歴任された人である。経済界の大物なら、ここでテーマにしている「反戦」とは遠い人かと想像されるのだが、人ぞ知る反戦主義者である。自身が若い世代に徴兵され、中国戦線で砲弾に倒れた体験者であることが深い説得力となって迫ってくるものがある。

本著は手記と書かれている通りの実体験が描かれている。

感動的な記述が多い中でとりわけ惹きつけられた文節を紹介することにした。折しも安倍政権の安保法制に反対を唱えるデモの渦中にいて、品川氏の発言や記述に深い関心を寄せざるを得ない。立法府はこれほどまで国民の嘆きの声を無視して良いものだろうか。

 

『まえがき』にあるように、「いま、真にこの国が直面し、国民が明確な解決を望んでいるのは、憲法九条と日米安保との明かな矛盾と相剋を、どう克服するかという決断であり。国民も起ち上がろうとしている。それに対し、マスコミはこの問題から国民の関心を逸らそうと懸命である」

『憲法九条を復員船上で知る』

「中国・鄭州の俘虜収容所を経て、上海で復員船に乗船する。船が山口県の仙崎港に着いたとき、日本の新聞が船内に持ち込まれた。ちょうど新日本国憲法の日本政府草案の全文が収録されていた。隊員に読み聞かせた。憲法前文を読み始め、九条の部分を読み終わると、全員が泣き出していた。戦争放棄をうたい、陸海空軍は持たない、国の交戦権は認めない。よく書いてくれた。これだったら亡くなった戦友も浮かばれる。私は、読みながら突き上げるような感動に震えた。」

『美代の化身- 紋白蝶』

美代は学生時代の恋人であり婚約者であった。著者が中国の戦地にいるとき、日本にいる美代は戦災に遭い、不発弾の直撃によって亡くなっていた。帰国後、美代の実家を訪れ、美代のお墓参りをした。そのときだ。「どこから飛んできたのか。紋白蝶が一羽、母の手の菜の花にそっと羽を休めた。しばらくじっとしていたが、静かに身じろぎしてから私の肩に移って動かない。父も母も妹も息をのんで蝶を見つめた。私が溢れる涙を左の袖で拭い終えて立ち上がるのを見届けて蝶は静かに空に消えていった。」

『演劇 「たけくらべ」 -真っ直ぐな心』

著者は復員後、東京大学に在籍したまま、新制中学に奉職することになった。新制中学では男女共学制が採用されていた。学芸会で樋口一葉の「たけくらべ」を選び、著者は脚本作りに没頭した。生徒たちは祭りの場面では活きいきと動きまわり、思春期の思いつめた表情と動作は本物の初恋物語であるかのような息を詰めた演技ぶりであった。その成果は見事に報われ大成功を治めるのであった。

この体験は生徒たちにとって一生の思い出になったに違いない。またその後の著者の仕事にも得難い体験をもたらしたのではなかろうか。

『卒業式後の授業』

新制中学校教師の最後の日、終業式を終えたあと、担任クラスの生徒たちが教室に残り、品川先生の体験した戦争の話しを聞かせてくださいと真剣に迫ってきた。生徒たちの中にも親兄弟が戦場に赴いて犠牲になった者もいる中で、品川先生は生徒たちに語り出すのだった。中学二年生の多感な少年少女たちの胸の中に強烈な印象を残したに違いない。

「戦争ほど怖ろしいものはない!

戦争ほど国民を苦しませ、悲しいものはない!

戦争ほど世界に不幸を与えるものはない!

戦争を起こしたのは国家だったと思い込んでいた。しかしそれは違うと今は思っている。戦争を起こすのも人間だし、それを許さない、戦争をさせないのも人間だと、私は信じている。」と著者は語っている。

 ( 2015.10.09 )  森本正昭 記