「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 179
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青木冨貴子
GHQと戦った女 沢田美喜』
    新潮社、
2015






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 表紙を飾る沢田美喜と8人の幼児の写真はなんとも可愛らしく心なごむ。しかしよく見ると、美喜はじっとカメラを見据えているが、子どもたちは右前方に視線をやっているのはどうしてだろう。この外国人らしい子どもたちは戦後間もなく米兵と日本人女性との間に生まれた混血児で、人知れず公園、トイレ、駅などに捨てられた孤児である。それを知らされると一転して重苦しい話題に引きずり込まれる。

沢田美喜はこんな境遇の子どもたちに救いの手を差し伸べた。大磯に建てられたエリザベス・サンダーズ・ホームがその収容施設である。戦後35年を迎える年にスペインのマヨルカ島で客死した沢田美喜は、これまでに560名の混血孤児を含む約2千人の孤児を育ててきたという。

美喜の生い立ちは明治34年、岩崎久彌の長女として生まれた。三菱財閥の創始者、岩崎彌太郎、二代目彌之助、三代目が久彌である。

美喜は祖父彌太郎の「いごっそう」をみごとなまでに受け継いだようで女彌太郎と称されていた。祖父の栄光にすがる華族を嫌悪し、華族との結婚を拒否した。反骨精神を持ち、自分より優位なものと争うことをためらわなかった。日本を支配している進駐軍と事を構えて初心を貫徹していく。

進駐軍に誰ひとり立ち向かえなかったアメリカ一辺倒の占領下の時代、米兵の落とし子のための施設をつくることはGHQに歯向かうことを意味していた。

それでもエリザベス・サンダーズ・ホームはつくられた。それはどのようにみられたのだろうか。進駐軍と沢田美喜の戦いに火を点けたのは、米国で人気のある週刊誌「サタデイ・イブニング・ポスト」の特集『占領の落とし子たち』(1948年6月)だった。進駐軍の政策に真っ向から楯突くことになるなど、思いもよらないことであった。占領軍は混血児について何も語ろうとせず、その人数を把握しようともしなかった。

対立した相手はGHQの公衆衛生福祉局長サムズ准将であった。サムズは米軍が混血児を引き取るつもりはなく、その存在を消したいとさえ考えていたのは明らかだった。これにたいして美喜のねらいはまったくの正反対だった。混血児たちを集め、日本語と英語の二ヶ国語で育て、将来は日米両国に役立つ人間に育てようとしていた。サムズは軍の道徳的退廃をワシントンに知られてはならないのだった。

美喜は外交官・澤田廉三と結婚、その任地はベノスアイレス、北京、ロンドン、パリ、ニューヨークと転々とするが、各地で活躍した。

著者は息子・信一に問いかけている。母・美喜がエリザベス・サンダーズ・ホームをつくった理由は何かを問いただしている。これに対して信一は

「3つの説があります。1は大磯の別荘が人手に渡るのを防ごうとした。2はこんな目に遭わせた占領軍に赤恥をかかせてやりたかった。3は本心、慈悲深く、気の毒な子どもたちを心から面倒見てやろうとした」信一の答えは2の占領軍に恥をかかせてやりたかったでしょうねと著者は言う。

 

 戦争によって巨万の富を蓄えた岩崎家に生まれたことへの贖罪の気持ちが、美喜にこの仕事を成し遂げる力を与えたのではないかと著者は見ている。

先の戦争の記憶が風化する今日にあって、戦中戦後の体験を次の世代に伝えなくてはならないのだが、美喜のように時代の趨勢に立ち向かおうとしる者は少数派になりつつある。

 

2018.07.05)  森本正昭 記