「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 163
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『作家と戦争』
太平洋戦争70年、
    河出書房新社、
2011









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戦争文学アンソロジー(選集)として選ばれた作品の中から、ここでは

久生十蘭『少年』と太宰治『散華』を紹介する。


久生十蘭『少年』

著者・久生は岸田国士に師事し、現代物、時代小説、ユーモアもの、推理小説など幅広く作品を残している。太平洋戦争中の1943年に海軍報道班員として南方戦線に従軍し、「従軍日記」を遺している。
『少年』はその時期の作品である。決して私生活を語らない作家と言われている。

 

またこの作品の中では戦死という用語を使っていない。その表現が実に文学的なのである。戦場を体験していない者にも情景を描き出す文章である。

 

家族の長男の姿を若い従兵の行動と比べて見ている。その動作はふしぎな美しさの中で語られる。

南方に派遣されて、日々戦闘が身近にありながら、語りは柔らかい。
戦闘場面や戦死が直接語られることはない。事例を挙げると、

「航空隊の朝は早い。暗い内に食事を出す。司令、副長の他、士官室の顔ぶれは、三十人内外であるが、前進基地と交代するので顔ぶれはいつも不定である。また戦闘のあったあとは一時にいくつかの名札が減る。この名札は永久に食卓の上へ並ばない。」

 

「お地蔵さん」と呼ばれている少年従兵と掌工作長とはいつも暖かい会話を交わしている。

 

飛行艇は飛行場のない地域で、有効に使われてきた。海上に着水するからだ。連絡、偵察、哨戒、救難、爆撃に役立っている。

しかし登場する豪州軍の飛行機の攻勢にはかなわない。

敵方は「この前線基地を痛烈な憎悪の対象にしていた。ボーフォート(英双発夜間戦闘機)をボーファイターという低空地上銃撃専門の攻撃機に改造して、この前線基地を破壊する目的ですべてを投入してきた。これに立ち向かうには飛行艇のイナアシャーを急速に回転して点火起動させねばならない。」そのため整備兵は日中のすべての時間を人間イナアシャーとして役割を果たそうとした。これは少年整備兵の役割としては苛酷な現実であった。機体から振り落とされてしまうのだ。

「黄昏が影をひく長い渚に、「お地蔵さん」こと、少年・市村二整とおれと二人きりでいる。この潮騒のような椰子の葉ずれ、遠い珊瑚礁に立ち上がる白い幻のような寄波はたれのためであるか?またしても風の中にかすかにまじってくる敵機の爆音はたれのためであるか?なにもかももうかれには関係はないのである。」彼はもういないということをこのように表現している。


太宰治『散華』

太宰は徴兵を経験していないし、戦場に文士として派遣されることもなかった。

その理由は徴兵検査で肺病を疑われていたというのだが明かな証拠はない。人間失格のため、軍隊生活に適しないと判断されたのではないか。

 

私は若い頃、親しんだ太宰の文章に再び触れる思いでこの小説を読んだ。

文体や作風は久生一蘭とはかなり異なる。私生活を語っているし、「死」がしばしば顔を出している。

「玉砕はあまりにも美しい言葉で、私の下手な小説の題などには、もったいない気がして来て、玉砕の文字を消し、題を散華と改めた。」と冒頭に書かれている。

 

年少の友といっているが弟子なのだろう。三井君、三田君、戸石君が登場する。それぞれの人物像や関係性が巧みに紹介されている。三田君は頭が大きく、額が出張って、目の光りも強くて、俗にいう「哲学者のような」風貌であった。「少し暗いところに座って黙って私の言葉に耳を澄まさいている。」などと。

「三田君は北方の一孤島でずば抜けて美しく玉砕した。」アッツ島である。「私の手許に、出生後の三田君からの便りが四通ある。」

「年少の友に対して、年令のことなどちっとも斟酌せずに交際してきた。可愛がる余裕など、私には無かった。」初めの三通の手紙が紹介されているが、それにはまるで関心はなく、太宰を感動させたのは最後の一通である。三田君は詩も書いていたので、詩手紙になっている。

お元気ですか。

遠い空から御伺いします。

無事、任地に着きました。

大いなる文学のために、

死んで下さい。

自分も死にます、

この戦争のために。

「死んで下さい、というその三田君の一言が、私には、なんとも尊く、ありがたく、うれしくて、たまらなかったのだ。これこそは、日本一の男子でなければ言えない言葉だと思った。」

この詩が短い作品『散華』の中に3回も登場する。それほどにも感動したのか、原稿料稼ぎなのか解らない。

太宰は三田君の詩魂について、これまで評価してこなかったのだが、詩を指導していた山岸さんから「いちばんいい詩人」と聞かされていた。それでも太宰は自身の感じに対する強情さを取り消していない。
「私には、どうも田子作の強情な一面があるらしく、目前に明白の証拠を展開してくれぬうちは、人を信用できない傾向がある。」

「けれども、あの「死んで下さい」というお便りに接して、胸の障子が一斉にからりと取り払われ、一陣の涼風が颯っと吹き抜ける感じがした。」と書かれている。

(2015.03.09) 森本正昭 記