「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 183
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NHK
『祖父が見た戦場―ルソン島の戦い、
20万人の最期』
2018819日放送 




小野景一郎



小野文恵


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 小野景一郎はフィリピン、ルソン島で34歳にして戦死している。NHKアナウンサー・小野文恵の祖父である。孫・文恵にとっては会ったことのない人であるが、母と娘の2人は景一郎が戦った戦場を探る旅に出た。これはその足跡をたどる番組である。

戦死した日付は1945620日(国の死亡告知書)と820日(広島県死亡連名簿)の2種類の資料がありはっきりしていない。

同じ部隊の下士官の日記が残されている。その中に書かれている場所をたどっていくことにする。

194465日、マニラに上陸。日本の占領下にあった。マニラから家族への手紙によると、盲腸炎が極度に悪化したと書かれているのは苦しかっただろうなと思う。

 

アメリカ国立公文書館に保存されている資料によるとアメリカ軍は日本兵の死者の数を一体一体カウントしていたようだ。非情さを感じる。それはアメリカ軍の戦力を見せつけるためや心理戦に利用するためであろうか。とりわけマニラの市街戦では、日本軍は全滅に近い状態で、戦死者15695人に及んだという。

北部にあるサンフェルナンドにはまだ日本軍の主力部隊が残っていた。その地からの景一郎の手紙が残されている。

もちろん家を出る時より、生還を期せざりしも

あるいは最後の便りと相成るやもしれず

この手紙笑って語る時季ある事も合わせ祈り折り候

 

ここから北へは当時は線路しかない。二人はいまではなくなっている線路を探り当て祖父の足跡を想いやる。いいしれぬ切なさが漂う。

日本軍はアメリカ軍をルソン島にくぎ付けにして本土上陸までの時間稼ぎをしていた。絶対に後方に下がることはない。兵站力がないので自活自戦の抗戦をしていた。兵隊は食料がないので、死者の靴をふやかして食べるほど飢えに苦しんでいたという。

この地でも多数の戦死者を出している。

サンフェルナンドからバギオへ向かう。景一郎がどこで最期を迎えたのか、次第に明らかになってきた。ツマウイニからバヨンボンの兵站病院に立ち寄る。盲腸炎を抱えていたことからこの病院に行ったのではないかと考えられたが確認できなかった。

194510月アメリカ軍が迫ってきた。その先のカワヤンに向かう。この地には景一郎の目撃情報があった。衰弱して歩行が困難になっていたという。ツマウイニに向かう。戦死の公報にはこの地の名が書かれている。カワヤンからの距離は40キロもあるので、衰弱した景一郎は途上で亡くなった可能性が高い。ここでの日本兵死者は459人と記録されている。

父の姿を求めてこのようなところまでやってきた母の姿に文恵は涙する。

正確な場所はわからないが、このあたりという場所で、二人で日本の童謡を歌い、祖父へのささやかな慰霊祭を行う。

さらにマニラ市街戦の慰霊碑を訪れ、日本軍による市民への性暴力の跡地を訪れる。不幸な過去を乗り越えて今は別の人生を生きているというフィリピン女性の話に耳を傾ける。小野文恵さんの知らないフィリピンがそこにあった。二度と繰り返してはならないと心に誓う。


ー(2018.09.14)  森本正昭 記