「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 174
                      Part1に戻る    Part2に戻る

池内 「科学者と戦争」
     岩波新書、
2016










戻る
 
著者・池内了氏は、いま日本で軍学共同が進みつつある実態を明らかにし、その動きに警鐘を鳴らしている。

戦後、日本学術会議は1950年の総会で、「戦争を目的とする科学の研究には絶対に従わない決意」を発表した。また東大の南原茂総長は「軍事研究に従事しない、外国の軍隊の研究は行わない、軍の援助は受けない」との原則を打ち出している。

しかし次第に軍学共同が進められる時代に入ってきた。大学や研究機関が軍事研究に巻き込まれていく危険性が増しているのである。

最近では、安全保障に名を借りた軍事優先の方向に走り出している。事例を挙げるなら2008年の宇宙基本法の制定や2014年「武器輸出三原則」から「防衛装備移転三原則」へと大転換し武器輸出が閣議決定で事実上解禁になったこと。また日本の科学技術基本計画(2016年)では、「国家安全保障上の諸問題への対応」が書き込まれた。今後、科学の軍事化がいっそう加速されると憂慮される。

その実態を説明するため、著者は「デュアルユース」と「研究者版経済的徴兵制」という用語を使っている。デュアルユースとは一本のナイフがリンゴの皮を剥くのにも、人を殺すのにも使われるように、いかなる科学、技術の成果物も使い方次第で平和にも戦争にも使われる。悪用されても、その科学者には罪はないと考えられてきたが、それでいいのだろうか。

軍から研究資金を供与される場合、その研究がいかに基礎研究に見えようと、将来必ず軍学共同につながるので行うべきではないと著者はいう。「研究者版経済的徴兵制」については、研究者は研究費という経済的誘い水によって、軍事研究という徴兵制に応じることになる。防衛省の「安全保障技術研究推進制度」に運良く採用されても、研究の過程は防衛省のプログラムオフィサーによって管理されるし、成果の発表についても同意と確認を得なければならない。公開の自由は不透明である。資金提供側の意向をずっと斟酌しなくてはならない。

防衛目的だけなら、それは平和目的だから許されるのだろうか。戦後日本の平和主義は非武装から出発し、専守防衛に、非侵略に、今では集団的自衛権を行使できるところまできてしまった。国の防衛のために戦わなければならない。「防衛」という言葉は軍事研究のカムフラージュにすぎないと著者はいう。本来、防衛と攻撃は表裏一体のものである。

どうすればよいのか。

軍学共同を通して戦争に協力する科学者は、真の教養を学んでいないことを意味する。

本著の最後の最後にガンジーの遺した言葉を挙げて、締めくくっている。

「人格なき学問、人間性が欠けた学術」にどんな意味があろうかと。

読者からの意見としては、ガンジーのこの箴言から始めて、人間性のある科学者の実像を書き綴って欲しいと思った。


(2016.07.23    森本正昭 記)