「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 176
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星野光世
『もしも魔法が使えたら―戦争孤児
11人の記憶―』

講談社、
2017 





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 この本には著者の聞き書きによる戦争孤児の証言記録が多数見られる。太平洋戦争による日本の戦争孤児の数は123500人に及んだという。戦火を避けるため政府は都市部の児童を農村部に疎開させた。この政策により戦争孤児が多数うまれる結果となっている。学校単位の集団で疎開したのは学童疎開と言われていた。

著者自身は昭和8年生まれ、東京大空襲に遭い、両親と兄妹の4人を亡くす。そのとき著者は学童疎開で千葉のお寺で暮らしていたので命は助かるのだが、残されたのは11歳の著者と8歳の妹、4歳の弟だけであった。

私(著者)は母の実家のある千葉に連れて行かれたり、父の実家のある新潟へ移住したりするのだが、弟と分かれて住むことになったりする。

 このように親を亡くした孤児たちは親戚の家々を転々とすることが多かった。そこでいわれのない叱責を受けたり過酷な差別を受けたりしている。それでも懸命に働くことによってなんとか生きていける道を切り開くことができた。

こんな状況の中でも孤児は親の形見や思い出を後生大事にして生きていく。著者の場合は漆塗りのお椀が両親の形見になっていた。

孤児の体験は凄まじいものがある。

親戚もなく住む家のない子どもたちは都会で浮浪児と呼ばれていた。その数は多数に及んだ。汚い身なりや不衛生さを理由にまるでゴミのようにトラックに載せられて、見知らぬ山中に全員捨てられた子供たちがいた。それを実行したのは東京都の公務員だったと書かれている。それでも子どもたちは歌を歌いながら、山を下って町にたどり着く。

孤児は厳しすぎる運命を享受するしかない。世間は貧しい生活に迷い込んだ孤児を受け入れようはしない。それでも子どもたちの心は純粋無垢のままである。

雪の夜に冷たい水を掛けられた者もいる。身内であるはずの親戚の叔母はどうしてこんなことをするのか理解できない。

 

こんな時だ、もし私に魔法が使えたらと、白昼の夢を見る。

もしも、魔法が使えたら

魔法のほうきに乗って

あったかい母さんのいる世界へ

今すぐ飛んでいきたい!

そして思いっきり話がしたい

 

この本の最大の特徴は悲惨な目にあっていながら、純粋無垢な子どもたちの表情が、美しく絵に描かれていることである。しかも全ページにわたって描かれている。それは著者固有のものであり、体験が編み出したものであろう。

 


(2017.11.25)  森本正昭 記