「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 164
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竹山道雄『ビルマの竪琴』
竹山道雄著作集7 福武書店、
1983

原作は「赤とんぼ」 昭和22年~23年



フリーイラスト集より借用



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原作が児童向け小説として発表されたのは昭和22年3月から昭和23年2月にかけてである(児童雑誌「赤とんぼ」)。敗戦直後の時期にこの小説が発刊されたということが注目される。当時、竹山氏は転向した右翼と揶揄されたと聞く。ベストセラーとなるのだが、高見順は「ビルマに行ったこともない者があんなものを書くなんて」という言い方をしたと出版社の月報に記されているが、竹山氏は3回もビルマに行ったことがあるそうである。(随想、小山いと子)


後に監督市川崑、脚本市川夏十によって2回にわたり映画化されているので、映画を観て感動した人の方が小説を読んだ人よりもはるかに多いのではないだろうか。

この小説の中で、音楽学校出の隊長の指揮のもと、この部隊ではさまざまな歌を合唱する。「春高楼の」、「菜の花畠に」、讃美歌、「パリの屋根の下」のほか、ドイツやイタリアの名曲、お得意は「埴生の宿」である。

なぜ戦場で合唱するのか、歌によって意気高揚することができる他に、暗号伝達の意味があった。隊の中に水島という竪琴弾きのうまい上等兵がいて、何かというと竪琴を奏でている。

部隊はビルマ戦線を敗走しているのだが、斥候に出た水島が安全な場所を見つけると、こちらに移動せよと部隊に連絡するときに、示し合わせた曲を奏でる。あるいはそこは危険だから移動せよという指示を竪琴の曲で知らせるのである。合唱するのはその指令を了解したという意味で歌うのである。

この部隊が捕虜収容所に収容されたあと、戦争はすでに終わっていたのだが、水島上等兵は別な陣地で抵抗を続けている日本軍部隊に危険をおかして投降を勧めに行く。そこで完全に拒否されてしまうのだが、部隊に帰る途上で死亡したのではないかと現地人の物売りの老婆から知らされる。

この小説では、水島が戦死したのか不明のまま、隊員たちは捕虜収容所で、水島の帰りを待ち望んでいる。水島に似たビルマ僧侶を村でさらには身近に見掛けるのだが、生死が不明な状態のままミステリー物語として進行し、遂にこの部隊は日本に帰国することになる。

隊員たちは収容所の柵ごしに歌を合唱し、近づいてきた水島似のビルマ僧が柵の外で竪琴をかき鳴らす。やはり僧は水島上等兵だったのだ。この物語のクライマックスの場面である。隊員たちは多くの歌を歌った。「埴生の宿」、「庭の千草」など。隊員たちは「オーイ、ミズシマ、イッショニ、ニッポンヘカエロウ」を連呼する。しかし僧侶は竪琴で「仰げば尊し」を奏でながら背を向けて去っていく。

竹山道雄は第3話『僧の手紙』の中で戦後の子ども達にやさしく語りかけている。日本兵のおびただしい屍が山野に散らばったままにして、帰国して自分の生活を始めることはできません。

「私はビルマ僧となりました。私のなすべきことは日ましに増えていきます。ただ日本兵の遺霊をなぐさめるばかりでなく、ビルマ僧としての役目もはたさなくてはなりません。この国の人々のためにも、できるだけつとめたいと願います。」

「この苦しみの多い世界にすこしでも救いをもたらす者として行動せよ。その勇気をもて。いかなる苦悩・背理・不合理に面してもなおそれにめげずに。」

「わが国は戦争をして、負けて、くるしんでいます。それはむだな欲をだしたからです。思いあがったあまり、人間としてのもっとも大切なものを忘れたからです。われらが奉じた文明というものが、一面にははなはだ浅薄なものだったからです。この国の人々のように無気力でともすると酔生夢死するということになっては、それだけではよくないことは明らかです。しかし、われわれも気力はありながら、もっと欲が少なくなるように努めなくてはならないのではないでしょうか。

どうしたらわれらは正しい救いをうることができるか――。そしてそれを人にももたらすことができるか――。このことをよく考えたい。教わりたい。それを知るべくこの国に生きて、仕え、働きたいと念願いたします。」と水島上等兵は手紙を書いて隊長と戦友たちにその思いを託したのです。

 

いま戦後70年を経た日本はふたたび戦争をする国に向かおうとしています。しかもその動きは急速に進行しています。竹山道雄がこの物語を書こうとした心を忘れてはならないと考えます。敗戦の体験を忘れてはなりません。いま私たちは何をなすべきかをこの本は伝えているように思います。

(2015.04.01) 森本正昭 記