「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 180
                               Part1に戻る    Part2に戻る

西村京太郎

十五歳の戦争

陸軍幼年学校「最後の生徒」 

 


戻る
 太平洋戦争が始まろうとする頃、当時十四歳から上の少年たちはそれなりに進路を考えていた。陸軍少年飛行兵、海軍では飛行予備練習生(予科練)の勧誘や募集広告が目についた。その宣伝文句には「栄養補給が十分で普通の兵隊さんより五百キロカロリーも多い」と書かれていた。腹を空かしている少年たちには、このたまらない宣伝文句に惹かれた。というのだが著者は格別に「できる少年」だったのだろう。陸軍幼年学校をねらった。これは陸軍のエリート将校を純粋培養する教育機関であった。その学校は東京のはずれ八王子にあった。

著者は昭和二十年四月一日、父親に連れられて同校に入学した。同期(四十九期)生は三百六十名におよび増加傾向にあった。

その学校は高い塀にかこまれ校庭がたいへん広いことが印象的であった。これは市民との接触を禁止し、高い塀の中と市民社会とははっきりと区別された別世界であることを意味していた。一般人のことを東京であろうと八王子の人であろうと「地方人」と呼んでいたのである。

中央に本部、校舎、生徒舎三棟、東西の運動場、西運動場の北の丘の上に雄健神社がありその下に生徒集会所があった。他に必要な施設が揃っていた。

昭和二十年になると、日本の主要都市へのB29の無差別爆撃による空襲はすさまじいものであった。とりわけ三月十日の東京大空襲により東京の下町は焼け野原になり、死者八万三千人、被災住宅は二十六万戸におよんだ。

なぜか空襲は八王子には及んでいなかった。しかしついに八月二日に東京陸軍幼年学校をも襲った。学校はB29の大編隊の標的になり消失してしまった。

この空襲で七人の生徒と教師三人が死亡した。一年生の死者はただ一人だったが、彼は天皇からいただいた短剣を腰に付けるのを忘れたため、炎上する生徒舎に取りに帰った。それで犠牲になった。この行動を校長は絶賛した。翌日葬儀が行われた。木材を集めて遺体を焼くことを校庭で行った。生徒たちはこれまでの元気さが消え、亡くなった生徒の敵討ちをやると息巻いてはいたが、著者には空元気であることが分かっていた。校舎のほとんどが消失してしまうと、気迫が空回りして意気消沈してしまったのである。

本土決戦の時が近づいているのを感じた。本土決戦になったら天皇陛下をお守りするために戦うことだけを意識した。

本土決戦が視野に入ってくる時点で、生徒監が教練の休憩時間に本を読んでいる。陸軍大学校の入学試験の勉強をしているのだ。これには著者は少なからず疑問を投げかけている。

 

他の学校と異なる点を挙げると、学校内に奉安殿がなかったこと。

将校は天皇に直結した、身近な存在だという意識から、毎日御真影を拝する必要はない。授業でも教練でも、天皇のことが話されることはなかった。校長は「天皇をお守りせよ」とは言ったが、「天皇のために死ね」と言った記憶はない。

また著者は上級生から殴られることを覚悟していたのだが、一度も殴られたことはなかった。制裁がない理由は「将校生徒なら殴られなくても、自分で反省するだろう」ということか。

敗戦に伴いこの学校は廃止され解散したので、著者の在籍した期間はわずかに五ヶ月であった。文字どおり「最後の生徒」になった。

 

(2018.08.09)  森本正昭 記