「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 162
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NHK歴史秘話ヒストリアより

『真珠湾のスパイ』
      …たった一人のハワイ  






吉川猛夫「東の風、雨-真珠湾スパイの回想」講談社、1963


吉川猛夫「真珠湾スパイの回想(文庫版スパイ戦史シリーズ)」朝日ソノラマ、1985


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かつて太平洋戦争開戦時の真珠湾攻撃のニュースほど日本人を有頂天にさせたものはない。

その背後に真珠湾の米軍海軍基地の動向を日本に打電していた日本人がいた。吉川猛夫である。その功績は絶大である。日本海軍が総力を挙げて実行した世紀の大作戦は吉川の諜報活動がなければ、成功することはなかったであろうと思えるからである。

テレビに描かれている日本海軍のスパイ・吉川猛夫は労せずして敵中を観察し東京に報告し、あの真珠湾攻撃を成功裡に導いたのである。

 

不思議なことに気づく。

日本側にその功績に報いる姿勢がまるで見られない。海軍兵学校を卒業(昭和8年)の彼は任官時に少尉、途中休職期間があるが、昭和19年、退役するまで海軍に勤務したのだが最終階級は少尉のままである。

彼をスパイとして逮捕したアメリカ側も、彼の犯罪を証拠不充分で不問に付している。アメリカの収容所に収容されたが処罰を受けることはなかった。

機密情報をホノルルと東京で交信したが、見破られなかったのか。この戦争中、日本の発信した情報はことごとく解読されて逆利用されたと聞くが、この時点では漏洩していなかったのか。アメリカ側はこれを機に日本の通信を解読することに力を入れたに違いない。

この任務を課せられるに当たって、吉川は素人の自分にスパイなどできるのか、自分には経験もノウハウもない。もし捕らえられたら、万が一にも命はないことを覚悟した。

森村正の偽名で日本総領事館に表向きは事務員として着任する。

そこに停泊する艦船の種類と隻数、停泊位置を観察し報告することが彼の任務であった。

基地の入口は厳格に監視されていたため、基地に近づいて、内部を観察したり写真を撮ったりすることは不可能であった。

仲良くなったタクシーの運転手は基地を裏側から見ることを提案した。そこは盲点であり、目の前に真珠湾に在泊する艦隊の姿を観察することができた。日系人の経営している料亭、「春潮楼」の二階は艦隊の動向を探る最良の場所であった。吉川はここに望遠鏡を構えて湾の出入り口を見張っていた。

 

森村こと吉川は発ホノルル総領事館、宛東京外務大臣の電報を打つ。

4月21日、在泊艦隊は戦艦11,重巡5,軽巡10,駆逐艦37など。

昭和16年の夏を過ぎると、日本から求められる情報は次第に高度になってきた。艦隊のスケジュールを探れ、何時に出港し何時に帰港するか。

情報の要求は次第に多くなってきた。10日に1回が、3日に1回、となり、毎日となっていった。しかし海軍からはそれが何のためにという説明はなされなかった。

さらに、ハワイの気象条件いかにと、ハワイの大気の情報が求められた。

吉川はこれでその目的がやっと理解できることになった。それは飛行機を飛ばすことを意味していた。日本は真珠湾に突入するつもりなのだと。

 

遂にニイタカヤマノボレが発信されると、日本海軍は真珠湾に突入した。吉川の情報によって飛行機が飛ぶ経路が綿密に計算されていた。その結果、アメリカ戦艦のほとんどに大打撃を与えることになった。

吉川は目の当たりにした事の重大性を痛感した。このときから吉川の悲劇が始まった。地元警察やFBIが来るのは時間の問題であった。彼はスパイの証拠をすべて消却しなくてはならなかった。

日本総領事館員は厳しい取り調べを受けた。疑念は森村正(吉川)に集中した。しかし吉川はどんなに脅されても口を割ることはなかった。

ハワイの日系人はスパイとは知らずに、いろいろな協力を惜しまなかった。後にアメリカに捕らえられてからは、ハワイの日系人は悲劇を味わうことになった。解雇されてハワイの日系人は仕事を失った。たとえアメリカ国籍であっても、日本人の血が入っていれば解雇された。そして収容所に送られたのである。

「私に対する怨嗟の声があがった。全世界の人々から憎まれ同僚からも侮辱されては立つ瀬はないではないか。」回想より

軍人の使命を最優先にしてきた吉川、アメリカ側の吉川に対する捜査は証拠不充分で打ち切られ、昭和17年8月、戦時交換船によって日本に帰国している。
吉川は海軍軍令部に復帰したが、戦局は悪化していた。大本営は兵力の差を隠し、事実を隠し、日本の勝利を宣伝し続けていた。彼は辞職を願い出たが受け入れられなかった。

海軍の中で孤立したという。

 

戦後になっても、たった一人で任務をこなした。たった一人でアメリカと立ち向かった。彼はどうすれば好ましい日米の関係を築けるかを考えていた。そのために上司の忠告を無視して、自分の考えを貫いたのではなかったか。

「相互理解は卑屈な従順だけから生まれるのではない」と彼は回想の中で述べている

「これからは日本再建が大事です。すべてをぶちまけ私も国民もみながこれまでの独りよがりを反省熟慮し、そして将来の方向をかんがえるべきではありませんか」

彼はGHQに対してあらいざらい事実を説明した。

真珠湾での艦艇数を調べたこと、日本料理店「春潮楼」でのことなど、これらはたった一人で行ったことで、ハワイ在住の日系人は関係していないと。
日本人の執念を正しく理解してもらいたかった。日米の相互理解は卑屈な服従だけから生まれるものではないことをアメリカ人に知ってもらいたかったのである。

戦後再びハワイを訪問。どうしても訪れねばならなかった。死者に黙祷を捧げ、日系人に直接謝罪した。テレビに向かって私は海軍から送られた、ただ一人のスパイであり、日系人は関係なかったことを述べている。ここで長年抱えていた苦しい胸の内を明かしている。この訪問を終えて、吉川の戦後は終わった。

 

 

 (2015.02.07)  岳人 記