「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 104

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伊波園子『ひめゆりの沖縄戦』
岩波ジュニア新書
2071992

少女は嵐の中を生きた

       

イラスト 名嘉睦稔

 




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沖縄戦は先の戦争において、日本本土で唯一の地上戦が行われたことに最大の特徴がある。沖縄の住民は軍隊と同じ戦禍のなかにまきこまれた。日本軍の住民に対する横暴さ(壕追い出し、食料掠奪、スパイ嫌疑による住民虐殺など)を指摘している文献も多々ある。

 

しかし、この本はジュニア版のためか、日本軍に対する反発する記述はなく、実体験を純粋な気持ちで描き込んでいる。副題に“少女は嵐の中を生きた”とあるが、著者はひめゆりの生き残りなのである。

 

著者は沖縄師範学校女子部の学生であった。

「(昭和20年)3月29日、夜10時、前代未聞の卒業式がおこなわれた。密閉された兵舎の前面に2本のローソクをともし、50名の卒業生をおくる。寂として声なく立ちつくしていました。前日からめっきり近くなった艦砲着弾の音があたりを震わせていました」。この3月26日に米軍は慶良間諸島に上陸したのです。

米軍の艦砲射撃はあまりのすさまじさに、「鉄の暴風」とよばれていた。その威力はおそろしいもので、「朝に緑だった丘は夕方には草一本ない焼土と化していきます」。

学徒動員には違いないのですが、出動先は暗い壕の中の病院、「当番制にしたがって、病院壕へ出張しての傷兵の看護、本部への連絡、食料の運搬、壕の拡張作業など」、休む暇もない。

 

それでも最初の内は

「外部のしれつさをよそに、24壕の生徒壕は、動員作業当時の活発明朗さを失わずにいました」。

「おそらく最後の瞬間まで生死をともにするであろう同じ班の友と、顔を見合わせ手を握り合いました。さすがに危機を身近に感じたのです」。

 

「中部戦線の激戦によって負傷兵が急増したため、生徒はいっせいに各壕に配属され、ひたすら傷兵を看護することになる」。

 

「飯上げが最も危険な仕事でした。夜の9時と夜明けの4時ごろの2回、衛生兵に引率されて、看護婦、学生の4名が必死の覚悟で出かけるのです。無事に帰れないかも知れない。そんな気持ちで人知れず服装を清くととのえて出かける習慣が私たちのあいだにはありました」。

「飯上げ」とはご飯を炊き、できあがりを分配する仕事だから楽しいはずなのだが、ご飯を炊くとき煙が舞い上がる。それが敵側に見つかると、集落や兵隊がいる場所がわかり、艦砲射撃や銃撃が集中する。そのため楽しいどころか、そこは最も危険な場所となる。毎夜犠牲者を出さない日はないといわれるほどであった。

無事に帰れないかも知れないので、服装を清く整えて出かけていくというところがひめゆりらしい美しいこころがけが感じられ、よけいに痛ましい。

「「今日も無事だった」と、一日ながらえた生命を、私たちは心からいとしく思いました。死は時間の問題と思いながらも、やはり一日一日と生きのびるうれしさは禁じえませんでした」と書かれている。

 

沖縄県民は軍隊をはるかにうわまわる約16万人もの戦没者をだしたのです。それは軍が最後まで徹底抗戦し、玉砕せよと命じたからです。さらに8月15日のポツダム宣言受諾後も、多くの住民が死んでいかざるをえなかったことは誠に痛ましいことである。

 

コラム欄に“いまなぜ「ひめゆり」証言か”というところがある。

「小説にもなり、映画にもなったにもかかわらず、半世紀も経って、共通の認識は得られていない」と書かれている。沖縄戦体験者たちの後世への叫び声が聞こえる。

(2009.07.31) (2017.04.10) 森本正昭 記