「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 050
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吉岡源治『焼跡少年期』
      中公文庫、1987

 

 

 

 

   

 

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「あとがき」に著者・吉岡氏は次のように書いている。「私たち家族の運命は、戦争によってその歯車が大きく狂ってしまった。戦争末期の昭和19年、家が強制立ち退きになったのを皮切りに、母を栄養失調で亡くし、引越し先が空襲にあい、住む家さえ失ってしまう。戦後も姉の自殺、父の病没、復員してきた兄の衰弱死とたび重なる不幸に見まわれ、それと前後して、東京や横浜の各所を浮浪児の群れに入って転々とする日々がつづく。私にとっては何の喜びもない、暗い少年期であった」と。なんとも暗い小説である。

この小説は著者の体験そのものを克明に描いている。内容は浮浪児の生活を描いたもので「あとがき」の通りである。戦争にもてあそばれた家族の運命といってもよい。

戦後のある時期、都市の盛り場には闇市ができ、食べ物屋があり、食料、生活用品を売る店が軒を連ねていた。浮浪児たちもそこに集まってきた。顔は汚く、薄汚れた衣類からは悪臭が漂っていた。ときどき警察による狩りこみが行われ、彼らは施設に収容されたが、しばらくすると舞い戻ってくるのだった。彼らは地下道を住まいとし自由に暮らす、狩りこみを待つ、これを繰り返せば、遊んでいてメシにありつけるという算段である。現在の日本でもホームレスがたむろしている場所は都会にはいくつもある。でも少年たちが野良犬のような生活をしている終戦後の姿は見られない。戦後の盛り場の風景でもあった。

吉岡氏は「同年配の少年たちだけで自由に生きていけることが楽しくてならなかった。われわれはこの島を「自由ランド」と命名した。実際、この島は誰にも束縛されない治外法権の別天地だった。島田啓三のの漫画『冒険ダン吉』の主人公にでもなったような気分で島を支配できた」と書いている。ここで島とは横浜港の中に作られた埋め立て地で、進駐軍に接収され米軍の基地となっていた。

浮浪児になるのは家のない身寄りのない子ども達ばかりかと思っていたが、この本によると家も家族もあるのに、自由を求めて好んでそのような生活に身を置いていたものが60%もいたという資料もある。

青年になってからは、家族と共に暮らすことに努めるが、その努力が報われることはなく、ヒロポン中毒によって身体が蝕まれ、流浪の日々を過ごす。しかし、やがて転機が訪れる。著者の兄の遺言「源治勉強しろよ」という言葉に励まされて、この生活から抜け出そうとする。夜間中学に通い始めるころから次第に道が開けていく。支援してくれる人がつぎつぎと現れる。大井バブテスト教会の牧師、優しさに満ちた教会の幼稚園の先生、墓地を譲ってくれたお寺の和尚さん、家族の墓石を刻むことを手助けしてくれた人たち、このような人たちのはげましの中から、次第に立ち上がっていく。いままで感じることのなかった他人の愛情に救われていくのだった。

戦争の後遺症ともいうべき、著者のこのような流浪の体験を誰にも味わってほしくはない。この様な時代が再び来ることがないようにしなければならない。


(2007.04.19) (2017.03.25)  森本正昭 記