「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 075
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吉田 満 『祖国と敵国の間』
(吉田満著作集
上巻)
          文藝春秋、
1986

季刊芸術、1974年春期号

 

大和の雄姿
写真集「日本の軍艦」
     ベストセラーズ社より

 

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「戦艦大和の最期」(1952)から22年を経て発表された。「戦艦大和の最期」が記録的意味合いであるのに対し、『臼淵大尉の場合』と『祖国と敵国の間』はそれぞれの主人公を中心に描いた物語である。いずれも深い感動を呼び起こすに充分である。臼淵 磐大尉は兵学校出身であるのに対して、『祖国と敵国の間』の太田孝一少尉は学徒兵である。しかも米国から日本に留学していただけに、数奇な運命をたどることになった。

「太田孝一は1921年、カリフォルニア州北部で果樹園を営む大田家の長男として生まれた二世である。カリフォルニア大学から慶応大学に留学したが、日米開戦のため帰国の機を失い、学徒出陣により海軍に召集を受けた。そして英語の特殊技能を生かして、暗号士となり、少尉に任官後、第二艦隊司令部付通信士として旗艦の戦艦大和に乗り組む。沖縄特攻作戦に参加して、24歳の短い生涯を終える。」

物語は時代背景をくわしく描いている。アメリカでは排日的世相、真珠湾奇襲攻撃以降の資産凍結と強制収容所への隔離、日系二世の米軍志願、442部隊の活躍、戦後の試練、一世と二世の埋まらない溝など。

日本では太田孝一が日本の軍国体制に溶け込もうとする懸命に努力する姿、ついに戦艦大和に乗り込むに至る過程と戦死するまで職務を全うする姿が描かれている。

物語はアメリカでの日系人の置かれている状況と日本での太田孝一の苦悩する姿とが交互に展開していく。

1934年、アリゾナ州ソルト・リバーで排日事件が突発すると、これを端緒に集団排日事件が多発した。戦雲がたれこめ、ついに1941年12月7日真珠湾攻撃のニュースが伝わると、全日系人の資産凍結、保険金の支払い停止、営業免許取消、病院への入院拒絶、米国市民としての基本的権利は停止された。敵性外国人立ち入り禁止の地域が設けられた。そしてすべての日系人が各地に設けられた強制収容所送りとなった。その時期、アメリカで太田一家も強制隔離の苦難をなめた。

  「大和魂というのは、死ぬことだ。日本のために死ねばよいのだ」孝一は大和魂という言葉を二世の学生仲間に話すようになった。ひそかな自問自答の中から「大和魂は日本のために死ぬことだ」と公言する。排日の責め苦を味わってきた両親から「二世は善良な市民としてアメリカに忠誠をつくせ」ときびしく教えられてきたためである。

孝一は明治神宮外苑競技場での、出陣学徒壮行会にも、当然のつとめとして出席している。

敵の無線電話に耳を馴らす実習訓練を経て戦闘配置につく。ボイス班の発する偽電は米軍側にどのように影響し、それが在米の肉親に何をもたらすのかと自問自答する。

艦長の伊藤整一司令官は、この戦闘で妨信偽信と情報聴取の両面から孝一のいる特信班を最大限に活用した。その実績は専門家の間で高く評価されたという。その影に太田孝一少尉の活躍があったことがわかっている。

後に戦死の瞬間まで部署を離れなかったというニュースは二世の間に喧伝された。

著者は次のように書いている。「アメリカから肉親を送り込んで戦争で死なせてしまった遺族をこれほど粗末にするような国(日本のこと)が、世界の信頼を回復することなどありえようか。

なぜ人間は一つの国に執着しなければならないのか。なぜ二つの国に同時に帰属することは許されないのか。一人の人間に一つの国だけを愛することを強いる如何なる制度、如何なる歴史的事件も、あまりにも卑小であり、あまりに残酷であるといいたい」と。

  母節子がスイス大使館を通じて太田少尉に託した手紙の末尾に「一緒に平和の日を祈りましょう」という結びの一句があり胸打たれる。

(2008.03.01)  (2017.04.03)    森本正昭 記