「昭和ドキドキ」(戦争の記憶を後世に伝えるためのサイト)で紹介 019
                        Part1に戻る    Part2に戻る

山中 恒 『子ども達の太平洋戦争 ―国民学校の時代―』
 岩波新書 1986年

 

   

 

戻る

著者は昭和6年(1931)生まれである。これは満州事変の勃発した年である。日本はここから延々15年も戦争をし続けた。15年戦争といわれるゆえんである。

著者は子供の側から見たあらゆる史実のうち、特に教育史に関係のある部分を集大成した。それがシリーズ『ボクラ小国民』で、氏のライフワーク的業績である。本著はこれを背景として、戦時下の子どもの風景を編年体形式でまとめたものであると、「まえがき」に記されている。

 太平洋戦争のことをだいたい知っているつもりでも、山中氏の著作を見るとまだまだ浅い認識であることに気づく。例を挙げてみよう。

 集団疎開で農村に疎開した学童が上級学校の入学考査期日にあわせて、決められた期間に帰京する。運悪く、東京大空襲に遭遇して死亡したり、戦災孤児となってしまうことがあった。疎開地の学寮の教師が空襲で死亡した学童の名前を発表すると、寮生の間から歓声が上がったり、口々に「いい気味だ」というのを聞いて慄然としたとある。友人の死を悼むどころかその逆であったことは、いかに疎開地での人間関係が荒廃していたかを物語っている。食料品の輸送が途絶えたまま、集団疎開は一、二年生にまでおよんだ。それは子どもの生き残りが目的でもあるが、空いた校舎を本土防衛軍の施設に転用することが目的だったことも書かれている。

 尋常小学校が国民学校にかわると、「体錬科(いまの体育)」が強化され、「正常歩」という歩き方、行進の仕方が国民学校生にはいたるところでつきまとった。それは寒さの厳しい時期には過酷なものであった。そのつらさを口にしようものなら、「満蒙や北支の兵隊さんのことを思え」、「天皇陛下のおんため」という答えが返ってきた。それでも小国民の男子はお国のために陸海軍の士官になることを夢見ていた。女子も軍隊のような教育に耐えていた。

 同世代の者には奉安殿、少年団、八紘一宇、勅語、一億一心、前へならえ、鬼畜米英、空襲警報、神社参拝、買い出し、紙芝居、欲しがりません勝つまでは などの言葉を忘れることができない。いちばん切実なのは食料が次第に身辺から消えていったことだ。戦争をすると空腹に耐えねばならないのだ。

 最終の節で、戦後教育とその後の動向についても触れている。筆者は「戦中戦後の教育というのは、天皇の奴隷になるための教育だったのである。そんな教育が良かったとか、そんな教育へ戻したいというのは、明らかに歴史に逆行する愚行でしかない」と述べている。

 

 

(2006.11.05) (2017.03.13)  森本正昭 記